赤法花、染谷良雄家文書のうちに『悪水堀下手(しもて)村々内談目論(もくろみ)覚書』というがある。これは嘉永六年(一八五三)十二月、猿島郡境町の戸張五郎兵衛という者が、岡堰関係三二か村にあてたもので、内容は悪水堀をつくるための工事の方法、人夫の供出などについての目論書を村役人に示し、その諒解を得るためのものであった。以下その覚書の内容を摘記すれば、
一、上手村々の悪水を赤法花村にて圦樋(いりひ)落し切り、なお又、雨天つづき出水の節は水防人足守谷町より差出し候筈の事。
以下二項にわたり、工事中雨天続きで出水に及んだときは、水防人夫として工事現場の関係町村である守谷町、赤法花村、市之代村、同地村から差し出すようにと要求し、さらにこの工事は「天下の穀数殖え候わけに当り候間、やはり御国恩に報ゆる一端とも相成るべきや云々」と述べ、その上「村々役人方にて手を下し、堀割り候心にて、弁当持参わが一家の普請同様に御骨折りこれあり度云々」といっている。すなわちこの工事は領主から命じられたものであるから、領民は国恩に報いるため、弁当持参、我が家を普請するつもりで労役に服するのが当然であるかのような意識をもって述べている。こうして農民は、やれ道普請だ、やれ川普請だといって夫役を課せられることが多かった。