将軍家狩猟時の夫役

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 このほか江戸時代を通じて特に大きな夫役を課せられたのは将軍家小金ケ原鹿(しし)狩りのときであった。小金ケ原というのは現在千葉県松戸市小金町附近一帯の広野で、ここでは享保十一年(一七二六)三月に八代将軍吉宗、寛政七年(一七九五)三月、一一代将軍家斉、嘉永二年(一八四九)三月、一二代将軍家慶がそれぞれ鹿狩りを行った。そのうち享保十一年のときは守谷町附近の農村から次のように農民が夫役として徴発された。
   赤法花村四人。市之代村一二人。同地村六人。奥山新田五人。内守谷村四四人。大木村五八人。御出子村二人。菅生村七〇人。杉下村二五人。
 第二回の寛政七年に行われた鹿狩りの記録は残っていないので分からないが、第三回の嘉永二年のときは、
   鬼長村四九人。杉下村一七人。新宿村三六人。筒戸村八一人。平沼村一七人。御出子村一人。立沢村二三人。板戸井村四六人。大木村三四人。大山村七人。野木崎村四五人。大柏村三六人。鈴塚村六人。高野村四五人。乙子村一四人。守谷町一四五人。赤法花村三人。同地村五人。市之代村七人。貝塚村四人。奥山新田四人。辰新田二人。
 となっている。これだけ多数の農民が三月(大陰暦)といえば、まもなく苗の植付けなどの準備に忙しい時期であるにかかわらず、いずれも数日間農作業をやめて夫役に徴発されるのであるから、農民にとってはまことに迷惑なことである。それでも農民は支配者の権威の前にはそれに従わざるをえなかった。