七卿落ちと真忠組事件に関する触書

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 赤法花の旧家染谷良雄家所蔵文書のうち、文久三年(一八六三)八月吉日に起こされた『御用留』の綴りに次のような二点の触書の写しがある。
   三条西中納言、三条中納言、東久世少将、壬生修理太夫、四条侍従、錦小路右馬頭、沢主水正
  右七人、去月十八日以後同伴、他国へ出奔に及び候段、朝威をはばからず、甚だ如何(いかが)に思し召され、官位を止められ候。和泉五条一揆(註、前侍従中山忠光を盟主として蜂起した大和十津川の変)中山の如く、何方に立ち寄り、偽名を唱え、諸人を恐惑致し候もはかりがたく候間、何方へまかり越し偽名を唱え候とも、聊か斟酌(しんしゃく)なく取締りこれあるべき御沙汰候こと。
   但し、若し乱暴がましき儀これあり候はば、臨機の所置召捕りこれあるべき候こと。
   右の通り仰せ出だされ候間相触れ候条その意を得、此の廻状村下に請印、早々順達し、留村より相返すべきものなり。
    九月十八日朝(文久三年)
 この触書は少し幕末維新史を知る人が読めば、すぐに史上有名な七卿落ちに関するものだと思うであろう。七卿落ちというのは文久三年(一八六三)八月、それまで朝廷の内部に勢力を得ていた尊攘派の長州藩を京都から追い出そうとして、佐幕派の会津藩が、朝廷に勢力のある長州藩を快(こころよ)く思っていなかった薩摩藩と手を結び、天皇(孝明)が攘夷祈願のため男山八幡宮へ行幸する前夜、にわかにクーデターを起こし、長州藩の勢力を一掃したため、長州藩士はやむをえず、自派の公卿で官位を奪われた七人を擁し、深夜京都を脱出した事件である。七卿はいずれも長州藩士に護られ、それぞれ安全な場所へ落ち延びたので、間違っても関東方面へ逃れ来るようなことはなかったが、幕府側では万一のことをおもんばかってこのような触書を廻したのであろう。
 また、次の触書は『書付けを以って申し触らし候』という標題をつけたものである。
   そもそも我等儀は報国赤心同盟の義士にて、国家のため身命を投じ、万民の困窮を免からしめんのほか他事なく、その趣きは嘉永年間夷船来泊、陽に和親を説き、陰に国郡を併呑せんことを企み、貿易を名としてこれを威(おど)すに数国をもってし、この時に御打ち攘(はら)いの御廟算これありと雖、治平連綿たる時節、武備御手薄につき、仮りに定(条)約を結び、その内講武習戦の上、御攘夷あらせらるべきの御趣意故、右接戦の節は我等輩聊か微忠を尽さんと、同盟相結びまかりあり候ところ、兎角御手延びのみ相成り候につき、夷賊ども愚民姦商を惑わし利をもって誘い、皇州日々有用の財を奪い、夷国無用の品物を高価に売り、国民の困窮、内患の生ずるを相待ち、国政を相預る重官賄賂に魂を奪われ、下民の苦しみを察せざるにつき、忠義の士は彼の為に命を落し、恥を知る輩は作病して役を辞する。ここに於て国司、大名は自国防禦を専一として帰国せしより、恐れながら御公儀様愈々御手薄に相成り候につき、慷慨の士国々に党を結び、何組、何組と称し、邪政を正し皇国の汚辱を一洗せんことを希(ねが)うところ、江府新微組、水戸組の名を偽り、在町へ押入り強盗をなすの悪党共立ちまわり、罪なき人民を斬り倒すにより、人気自然騒ぎ立ち候間、農民は米穀を囲(かこ)い、市人は金銀を貯えておのずから融通相滞り、貧人は益々貧に困(くる)しみ、実に兄弟離散し、父子凍餓するの期近きにあり。我が同盟の輩は身命を公儀に差上げ奉り、夷賊を討って皇国の災の根本を絶たんとす。然るに悪党共夷賊に先立って隣郷を騒がすの趣き風聞す。我等同盟の土、手初めに是等の盗賊を討って民の患を除き申すべく、所々に若し右様のもの贋浪士と成り、金銀等を借受けたしとの者これあり候節は、その者を差し置き、我等旅宿へ知らせ申すべく、直ぐさま出張いたし、その真疑を承り糺し、その組の頭分へ問合せ、宿在村々難渋に相成らざる様取計い方致すべく候間、此の段承知致すべきこと。
 右の書面寄場村へ写置き、本紙末に継紙をいたし、順々寄場に刻付をもって順達致さるべきものなり。
 但し、寄場村より写をもって組合村々へ触れ廻し、小前末々まで騒ぎ立て申さざる様村役人より能々申しつくべく候。以上。
  亥(文久三年)十二月廿八日
                        公朝浪人
                         真忠武士
                            松本熊太郎組
                              三浦帯刀有国  花押
                              楠音次郎正光  花押
       富田村大惣代中
       屋形村大惣代中
        是より最寄 寄場へ
        順達致さるべく候
                           九十九里の内
                            新開村 旅宿にて
 この触書は文久三年(一八六三)十二月、上総国山武郡新開村(現、千葉県山武郡九十九里町)の大村屋という旅館を本拠に、楠音次郎を首領とした真忠組と称する浪士団が、尊王攘夷救民を標榜(ひょうぼう)して蜂起したとき郷村へ廻布したものである。
 さて、以上二点の触書のうち前者は幕府から出されたもので公文書であり、後者は真忠組浪士団が出した私文書である。およそ幕藩体制下において公布する触書はすべて原則として支配者から発せられるのである。しかるに後者の触書の内容及び文書の署名者を見ても、支配者たる幕府やその関係機関から出されたものでないことは明らかである。それにもかかわらず当時赤法花村の村役人は、どうしてこのような触書をそのまま公文書だけを書き留めて置く御用留に写し置いたか、その真意を測り知ることはできないが、おそらく村役人は時代の推移を見極め、やがて来たるべき時代を予見してのことではなかろうか。とにかく、この二点の触書を見た当時の農村の人びとは、すでに緊迫している国内情勢から判断して社会的変動が何らかの形で身近かに迫ってくることを感じ、農民階級は農民としてそれなりに対応する心構えを準備していたものと思われる。
  (附記)真忠組事件については拙著『真忠組浪士騒動実録』がある。