水戸藩の内紛

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 元治元年(一八六四)三月二十七日、この日は天狗党と称する水戸藩尊攘派の志士が、尊王攘夷の大旆(たいはい)を筑波山上に挙げた日である。この一挙に参加した志士の中枢はもとより水戸藩士がその大半を占め、一挙の首領は武田耕雲斎、田丸稲之右衛門、藤田小四郎らであった。このほか天狗党には水戸藩士以外にも肥前島原藩士伊藤益荒、出羽松山藩士川俣茂七郎、下野宇都宮藩士中村平助、同松本亮之允ら、ほかにも多くの浪人たちが参加した。なかでも筑波山麓の各農村から有名無名の農民たちが参加したことは特筆すべきである。その参加した農民のうちでも天狗党の幹部に推され、後世史上に名を伝えた者としては筑波郡出身の高谷篤三郎、結城郡出身の昌木晴雄、同大久保七郎左衛門、真壁郡出身の飯田軍蔵、同大和田外記、下野国足利郡出身の西岡邦之助らがいた。これらの人びとは農村出身とはいえ、いずれも上農層に属していたので、学問もあり、また一廉(かど)の見識をもっていた。したがって天狗党の筑波挙兵についてもよくその趣旨を理解し、救国済民を念願としてこれに参加したのであろう。更にこのほかにも筑波山麓一帯の農村から参加した農民は『水戸藩死事録』によれば、実に八三三名に及んでいたという。その八三三名のうちには野木崎村からこの一挙に参加したといわれている椎名和吉も、含まれているのではないかと思われる。