さて、天狗党の一派がどうしてこのように筑波山に挙兵するにいたったのか、それについて少し説明を試みる必要がある。
明暦三年(一六五七)、水戸二代藩主徳川光圀によって始められた大日本史の編さん事業は、その事業を進めている過程において、編さん員たる栗山潜蜂、安積澹泊ら朱子学派の学者によって、君臣関係の大義を明らかにし、臣下の分を尽くし名分を立てることを主張する大義名分論が起こり、その論理を基本理念とした水戸藩特有の学派たる水戸学が生まれた。そしてその学派は大日本史の編さん事業を行う彰考館を中心に維持されていたが、後年たまたま編さん事業を進める上に、時の彰考館総裁立原翠軒と同じ彰考館の編さん員である藤田幽谷との間に学問上の論争が起こり、それが動機となって館内部において編さん員の間に対立した派閥が生じ、それぞれその主張を固持して譲らなかった。こうして館内に派閥が生じ両派相争うに至ったころ、水戸九代の藩主徳川斉昭は藩政改革に手を付けることになった。その時、斉昭の改革にまず賛意を表しそれを助けたのが藤田幽谷の系譜につながる派閥と藩内の軽格武士たちであった。ところが斉昭の改革を喜ばない者もいた。それは保守門閥の一派と立原翠軒の系譜を汲む派閥で、後この両派は合流して改革派に対抗することになった。それは天保年間のことである。ここにおいて改革派はそれに反対する保守門閥派を奸党(かんとう)または俗論党と罵(ののし)り、自らは正論党と称した。また保守門閥派はそれに応酬して改革派を天狗党と誹謗(ひぼう)するにいたり、はじめ修史上における学問的論争に端を発した派閥紛争は、ここにいたって遂に政治的問題までに発展し、累を後世に残す結果となったのである。さらに保守派が改革派を天狗党と呼んだのは、蓋(けだ)し、軽輩の成り上り者がにわかに藩政の上に力を得、天狗になって威張るという感じからそのように呼ばれたのであろう。また、改革派は保守門閥派をのちに書(諸)生党と称したが、それはこの派は多く藩校である弘道館の学生、すなわち書生らによって構成されていたので、嘉永六年(一八五三)六月、アメリカの使節ペリーの来航によって尊王攘夷、佐幕開国の国論が沸騰したとき、この書生派は保守門閥派と手を結び、尊攘論を標榜(ひょうぼう)する改革派に対抗したので、改革派である天狗党はこれを書生党と称して終始敵視し、その抗争は明治維新以後にまで及んだ。