幕末、殊に文久以後における水戸藩は、万延元年(一八六〇)八月、英主斉昭が没するや、改革派たる尊撰派の勢力にわかに衰え、それに代わって保守門閥派たる書生党の首領結城寅寿、市川三左衛門、朝比奈弥太郎らの一派が勢力を伸ばし、藩政はまったくその一派によって握られていた。そこで改革派、すなわち天狗党はこの頽勢(たいせい)を挽回しようとして藤田東湖の子小四郎が中心となり、同じ尊攘論を主唱する長州の桂小五郎らと謀(はか)り、東西相呼応して年来の宿願である尊王攘夷の義兵を挙げ、天下の大事を行うとともに、一挙に政敵である結城一派を葬り、水戸藩の内政を粛清しようとする計画を立てた。しかるに一方長州藩が勢力を得ている京都においては、長州藩の勢力を疾視していた会津、薩摩両藩によって企てられた文久三年(一八六三)八月十五日の政変によって、長州藩が京都から追放される事態となったため挙兵の準備も整わず、長州藩の決起はついに挫折することになった。しかるに水戸藩の尊攘派はこうした事情の下にあったのにかかわらず、騎虎の勢い止みがたく、水戸藩尊攘派のみ独断で筑波挙兵となったのである。