水戸の天狗党、兵を挙げて筑波山に據(よ)るとの報はたちまち幕府に聞こえるとともに、反対党である書生党にも伝わった。しかし、天狗党は一旦筑波山に據ったものの、ここに留まることわずか六日、その後山を下って長駆日光の東照宮に参拝し、挙兵目的の成就を祈願したのち、四月十四日には野州(現、栃木県)の太平山におもむき、滞陣すること約五十日、その間檄(げき)を四方に飛ばして広く同志を天下にもとめた。ここにおいてその檄に応じ、天下同憂の士は「夷狄(いてき)斬るべし、われ攘夷の魁けとならん」と叫びながら、天狗党に共鳴している水戸藩士はもとより、領内の郷士、神官、僧侶、農民、又は志を同じくする四方草莽(しほうそうもう)の志士たちが翕然(きうぜん)としてあつまり、日ならずしてその数一〇〇〇余をかぞえるにいたった。そこで改めて部隊の編成、軍資の調達に力を注ぎながら、しばらく太平山に留まっていたが、六月四日、再び筑波山に戻り、筑波神社の傍にある大御堂に本陣を置き、常、総、野の三州にその勢威をほしいままにした。
天狗党の筑波挙兵はその目的がいかに攘夷のため天朝を奉じ、幕府を助けるといっても、その行動が幕府の威信を傷つけ、治安を乱すものとして黙視することはできず、筑波勢がなお太平山に滞陣中の五月二十五日、幕府は関東一円及び奥州の一部を含めた一一の諸藩に、天狗党鎮圧の命令が下され、さらに関東地方の特別警察機関たる関東取締出役はほとんどその全員=といっても三〇数名=を挙げて、天狗党に関する情報の収集とその取締りにつとめた。またそれと同時に天狗党とは反対の立場にあった書生党は、当時、藩政の実権を握っていた執政市川三左衛門が藩命と称し、幕府軍の別動隊として天狗党討伐に加わることになった。そこで天狗党は幕府軍と自藩の書生党と対決することになったが、事態がこのように複雑化すると、水戸藩出身の天狗党主脳は幕府軍を敵とするより、むしろ自藩の書生党と戦い、それを撃滅することによって藩政改革を行い、攘夷の目的を達成することに重きを置いた。ところが天狗党のうちには水戸藩出身者ばかりでなく、全国から集まってきた同志もいるので、その志士たちは、自分らは国家のため尊王攘夷の大義を貫く目的をもってこの一挙に加わったので、水戸藩の内訌に関係することは本意でないといい、天狗党から離脱する者も多く、それらの志士たちは玉造、潮来、鉾田、鹿島そのほか各地に四散し、新たな行動を起こすことになった。それは元治元年(一八六四)七月から八月にかけてのことであった。筑波山麓一帯の農村が「天狗騒ぎ」の恐怖におののきはじめたのはそのころからである。