これは天保十四年(一八四三)二月に生まれ、昭和二年(一九二七)の秋、八五歳で没した筆者の外祖父から聞いた話である。天狗騒ぎのころ外祖父は二十二、三歳であったが、その話によると、筑波天狗はときどき守谷付近まで金を無心にきた。天狗が来たという噂がひろまると、女子供は皆おそれて裏の納屋か山の中へ逃げこみ、天狗が去るまでふるえながら隠れていた。また、天狗は大がい二、三人ずつ連れ立ち、馬にまたがり、晒木綿の襷(たすき)をかけ、白昼堂々村々を押し歩き、これはと思う目星い家に押込み、その家の主人を脅かして金品を奪いとったという。大木村の豪農須賀勘兵衛の家でもその被害を受けたという。
いかに国事に尽瘁(じんすい)する憂国の志士といえども、生活のためには金が必要である。天狗党から離脱して筑波山を下るとき、応分の配当金はあったであろうが、それもやがて底をつき、明日の糧にも困る者もいた。そのうちにも幸いにして有力な同調者がいて、それらの援護をうけていた者は別として、そうでない者はやはり「斬り取り強盗武士の習い」というような、戦国時代における野伏夜盗(のぶしやとう)の感覚で、零細な良民から金品を奪いとっていた。筑波山麓一帯の農村が天狗党崩れの浪人たちによって脅かされて被害をうけるようになると、幕府でもその事態をうれい、関東取締出役を通じて治安対策を講ずることになった。