幕府は天狗党鎮圧のためすでに述べたように一一藩の諸侯に命じ、さらに水戸藩書生党もこれに加わり、一勝一敗の戦況をくりかえしていたが、八月中旬ついに山を下って那珂湊方面へ部隊を移動させた。これより先、天狗党を離脱して四散した浪士の大部分は、玉造、鉾田その他の地方に拠って新たな行動を起こすことになったが、それに加わらない浪士たちは山麓一帯の農村を徘徊し、しきりに治安を乱していた。そこで幕府はその対策として山麓一帯の長民に自衛体制をとらせることにした。これに関して守谷町に次のような史料がある。
村々勢揃いの儀は来る十五日いたしたく存じ奉り候。就いては御相談向もこれあり候間、明十三日八ツ時頃まで当町玉屋忠五郎宅へ御参集成されべく候。以上。
(赤法花、染谷良雄家文書)
村々勢揃いとは、自衛体制をととのえるために、農民をもって組織する自警団的なものをいう。また、この史料に「来る十五日」とあるが、それは何月の十五日か分からないが、当時の情勢から判断して八月であると思う。さらに「当町玉屋忠五郎宅」とあるのは、元守谷町八坂神社の脇(現在、空地)にあった旅籠屋玉屋のことである。
そのころまた幕府はしきりに触書を回し、常総の農村を横行する浪士に対して農民自体の警戒心を促すとともに、その捕縛に協力するよう呼びかけた。
筑波山逃れ去り候賊徒ども、最寄村々の内に隠れ居るやの趣き相聞え候につき、篤(とく)と探索の上差押え、手向いいたし候はば打殺し候儀は勿論に候へども、若し多人数山林等に隠れ居り候か、或いは両三人にても手強(てごわ)く、村方の者手に及びがたきと見込み候はば、最寄廻村当出役並びに板倉内膳正(註、板倉内膳正は奥州福島三万石の藩主で、天狗党討伐のために出陣中)人数御陣の場所へ申立候はば、速かに人数差向け召捕り又は討取る筈につき、その段相心得、組合村々へ急速相達せらるべく候。この廻状寄場下へ請印せしめ、刻付をもって順達、留りより最寄廻村の当出役へ相返さるべく候。以上。
子八月廿六日 関東取締出役
右の通り御触れこれあり候間、御村々御承の上、請印成され、早々御順達留り村より御返し下さるべく候。
以上。
子八月廿六日
守谷町大惣代
斎藤徳左衛門
(赤法花 染谷良雄家文書)
次に
筑波山屯集の賊徒ども悉く御誅伐これあるべき旨その筋より御達しに付き、村々においてもその旨心得、賊徒ども金銀押借等に罷り越す者は勿論、潜伏又は徘徊いたし候はば竹槍その外得物を以って二念なく打殺し申すべく候。依っては、村限り小前末々まで相互いに申合せ、吟味いたし、賊徒どもに同意内通致し候者これあり候はば、組合、親類、懇意の間柄たりとも聊も用捨なく差押え、最寄廻村先へ早々申出づべく候。
若し見逃し置き、追って相知れるにおいては厳重に相糺し候条、今般賊徒ども追討の御趣意有がたく心得、組合限り申合せ方行届き候様、大小惣代並びに寄場役人ども精々厚く世話致すべく候。右の通り相達すべき旨その筋より御沙汰につき、申し渡す条、刻付を以って速かに申し通すべく候。此の廻状寄場下請印せしめ、早々順達留り村より御総督(註、幕府追討軍総督田沼玄蕃頭意尊)御宿陣我等詰所へ相返さるべく候。以上。
子八月廿五日 関東御取締出役
右の通り御触れこれあり候間、御村々御承知の上御村下御請印を成され候。以上。
守谷町斎藤徳左衛門様より。
(赤法花 染谷良雄家文書)