離脱した天狗党の末路

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 こうして農村に自衛体制が確立するとともに、その年(元治元年)の十月、天狗党の本隊が那珂湊の戦いで幕府軍に破れ、西上の目的をもって長駆上州、信州、濃州を経て越前に移動したのと、四散していままで常総の農村を横行して暴威を逞くしていた浪士たちも、あるいは幕府軍の追討にあい、あるいは農兵に捕殺されるなどして、ついに潰滅するにいたった。そのころ守谷町でも身元不詳の浪人が二人、農民のために殺され、その遺体は二本松の土手下に埋められたと、昭和初期のころ上町在住の中島太郎兵衛翁から聞いたことがある。
 ちなみに、この「天狗騒ぎ」のころ、北総地方において天狗党崩れの残党が、幕府の役人に捕えられ、また、農民たちに殺害された者も多くいた。史料によると、水海道においては元結城藩士水野主馬、元島原藩士伊藤益荒、元宇都宮藩士中村平助、同久貝外記、上州生れの処士大熊又五郎らが処刑または殺害され、岩井においては元水戸藩士塙又三郎、同立花辰之助、同根本新助、同斎藤好次郎、同押砂忠次郎ほか水海道出身の農民の佐吉らが各所で捕えられて処刑されている。しかし、それらの志士は明治、大正になっていずれも生前国事に尽した功によって、それぞれ贈位の恩典に浴している。なお、岩井の刑場跡には昭和十六年、第二次近衛文麿内閣の司法大臣になった水海道町(当時)出身の政治家風見章の揮毫による慰霊碑が建っている。
 筑波山に立て籠って山麓の農村を荒しまわった「天狗騒ぎ」は、その当時の人びとに少なからず衝撃を与えたものと見る。昭和初期の頃調査したことがあるが、そのころはまだ天狗騒ぎを実際に見聞した古老も多くいたので、昔の記憶をたどりながら天狗の恐ろしかったことを詳しく語ってくれた。ところが事件からすでに一二〇年を経過した今日では、この事件ももはや遠い歴史の彼方へ追いやられ、それを知る人もほとんどいなくなった。