さしも常総の山野を震撼させた天狗騒ぎも、天狗党が西上したことによってまたもとの平和な農村に立ちかえった。そこで幕府でも次のような触書を廻して人心の安定につとめた。
去子年、浮浪の徒暴行いたし、追討御人数御参向、追討に相成り、逃走し候ものも追々召捕り御仕置き仰せつけられ候間、在町(註、在方・町方の意)一同安堵いたし、いよいよ農業に出精、御法度筋は申すに及ばず、若輩の者ども遊びに流され、渡世を怠り候儀これなく、村々相立ち候様致すべき候事。
右は常州筋追討御用先において玄蕃頭(田沼意尊)殿御沙汰に依り、御勘定吟味役より達しの趣きこれあり申し渡し候間、組合村々へ通達せしむべく候。
丑三月(慶応元年)
右、仰せ渡さるの趣き承知畏み奉り候。これに依って御受印差上げ奉り候。以上。
下総国相馬郡
守谷町
組頭 丈助
大惣代 徳左衛門
下高井村
惣代 篤左衛門
(赤法花 染谷良雄家文書)
以上のように天狗騒ぎも一応は終熄し、平和が再び村々をおとずれたというものの、国内の情勢はそれとはまったく反対に、ますます緊迫の度を加え「菊は栄えて葵は枯れる、西に轡(くつわ)の音がする」と、当時西国で謡われた俗謡をそのままに、徳川の天下もそう永くは続くまいとの観測が、一般庶民の間にも流れていた。ちょうどそのころ、それと歩調を合せるように「世直(よなお)し」と称し、農村では百姓一揆、都市では打ちこわしなどの民衆による反体制運動が頻発し、北総の僻地守谷附近にもその兆候がいくつか現われた。そこで幕府では慶応元年(一八六五)五月、関東地方の村々へ次のように触書をまわした。
関八州村々の儀、近年聊かの儀を申し募(つの)り、奉行所へ訴え出で候ともがら多くこれあり候ところ、今般御進発(註、将軍家茂長州征討のため大阪へ出陣すること)仰せ出だされ候については、御留守中別して出精し、村々取締りの儀をも心づけべく儀につき、村役人どもは勿論、組合の者ども相互いに心づけ、村方不取締りの儀これなき様いたし、若し心得違いの者これあり、出入(註、訴訟)がましき儀出来いたし候はば、成るべく組合、村役人どもにて取扱い相済ませ、済ませがたき子細これあり候とも延ばし置きて差支えなき分は、還御(註、将軍の江戸帰着)以後訴え出で候。尤も悪党者等はいよいよ入念に相糺し、差押え訴え出で候とも、最寄廻村の関東取締出役どもへ注進に及び候とも致すべく候。
右の趣き関八州在町とも御領は御代官、私領は領主、地頭より洩れざる相触れ、支配御代官、領主、地頭においてもその旨相心得、不取締りの儀これなき様取計(とりはか)らわるべく候。
右の通り仰せ出だされ候条其の意を得べきものなり。
丑 五月二日
御役所
小林熊太郎様
(赤法花 染谷良雄家文書)
この触書は赤法花村の領主田安中納言家から、同村の名主染谷吉左衛門宛に出されたもので、奥書にある小林熊太郎は田安家の家臣である。
しかし、民心の動揺はこの一片の触書では収まらず、幕末に近づけば近づくほどはげしく、また、そのころになると幕府の支配権力も弱体化し、民心はいよいよその体制からのがれようとして、反体制運動はいよいよ活発になった。しかもその運動のおこる特徴としては、大名の領地支配のように強力な支配機構を持たない旗本領や零細な大名の飛地領などに多く見られた。その点守谷町及びその周辺はほとんど旗本領または大名の零細飛地領によって占められていたので、従って支配機構も極めて弱体なため、世情の動向にうごかされやすい状況の下にあった。
下総国相馬郡内守谷村の者ども何ごとに候や、多人数寄りあつまり、騒動いたし居り候趣き、大木村新田役人どもより在方懸り御奉所へ訴え出で候間、其の組合にこれなく候はば右組合村役人惣代へ打ち合せ、右村方へ早々出張取締り何れにも早々銘々宅へ引取り、願うべき筋に候はば惣代をもって相願うべき旨申し諭(さと)し、若し取り用いず候はば最寄同役どもよりも右の趣き通達いたし、自分も出張いたし候間、様子柄大急ぎをもって申し聞かさるべく候。此の御用状着次第昼夜に限らず惣代ども出張取り鎮め申さるべく候。何れにも取り敢えず模様大急ぎをもって申し聞かさるべく候。以上。
卯 十一月晦日(慶応三年)
関東御取締出役
安原寿作 印
守谷町
最寄
組合寄場
役人
中
惣代
(水海道市、秋場家文書)
これは内守谷村の農民の間で不穏の動きがあるとの情報を得た幕府は、早速関東取締出役を通じ、内守谷村と組合っている村々に対し、村役人が内守谷村と相談し、不穏な行動に出ないよう勧告を要請したものであるが、さらにその翌月(十二月)二十日にまた次のような触書を出している。
近頃村々において小前の者ども大勢竹鑓(やり)等を携え、寺社境内等へ寄り集り、数日焚出しいたし、諸色直下りの儀に事寄せ、連判等いたし、徒党がましき儀相企て、村役人又は身元宜しき者へ立ちまじき願い筋、或いはいわれなき難題申しかけ、騒動におよび候段不届につき、たとえ鎮(しづ)まり候あとにても、頭取の者召捕り厳重吟味の上、其の筋へ差出し候儀にこれあり、右は村役人ども取締り方不行届より事おこり候儀につき、以来厳重申し合せ、小前の者ども寄合いいたし候はば怪しき儀と相心得、村役人より大小惣代寄場役人申し合せ、直ぐさま右場所へ踏みこみ、頭取の者差押え置き其の段早々申し聞かすべく候。(以下省略)
卯十二月二十日(慶応三年)
関東取締出役
安藤寿作 印
太田源太郎 印
遠藤慎人 印
舟尾村、布佐村、布川村、取手宿、藤代宿、水海道町、守谷町
(水海道市 秋場家文書)
この触書につづいてまた幕府は関東取締出役を通じ、寄場組合村の村役人をもって次のような通達を出し、村々の自粛を促すことになった。
大至急廻文を以って申し参らせ候。
然らば今般、関東御取締役
木村信一郎様
関東東方役
秋山堅平様
今井田安太郎様
西山義武太郎様
右御方々様当時より御廻村あらせられ申し渡され候は、当組合(寄場組合)内にて窮民ども騒ぎ立て候やの旨御聴に達し、右鎮静御用のため御出張(おでばり)なされ、我ら(村役人)どもへ御糺しこれあり候につき、それぞれ穏便に相成り候趣き申し上げ候ところ、一まず御引取りに相成り候へども、この以後聊かなりとも心得違いこれあり候節は、風聞次第御召捕り、急度厳重に御計らい候条、後悔これなき様小前末々まで能く能く申し諭すべき旨仰せ聞かされ候間、則ち御村々様へ御達し申し上げ候。此の段篤と御承知の上、小前一同へ洩れなく御申し諭しなさるべく候。
十二月二十九日(慶応三年)
(水海道市 秋場家文書)
しかし、それでもなお農民の動揺はやまず、さらに村方に対してその鎮静と取締りを指示した。
近ごろ村々において窮民救助の趣き相唱え、惣代相定め、諸色直下げに事寄せ、村役人または身元宜しき者どもへ種々難題申しかけ、果ては多人数相集り騒動におよび、徒党頭取に陥り、言語同断不届の至りに候。畢竟(ひっきょう)銘々心得違いより事起り、不融通の基を開き、其の次第に依り、親妻子まで路途に迷わせ、往々難渋に成り行き候段如何にも歎かわしきことに候。就いては右の趣意柄篤と相わきまえ、此の後右様の企ていたし候やからこれあり、誘引相掠め候とも荷担同意は勿論、連判等決して仕るまじく候。若し他所より強談遁れがたき筋これある節は、急速村役人へ差図受け申すべく候。尤も村内貧民ども難儀の筋は組合、親類において助け合いつかわし候上、行き届かず候はば村役人へ歎願いたし申すべし。仮初(かりそめ)にも強訴徒党に類し候儀は一切仕るまじく候。万一向後右体の所業は勿論、風聞たりとも御聴に達し候はば、御時節柄容易ならざる儀につき、早速御人数差向け御召捕り、厳科に処せらるべき旨私共(村役人共)より小前洩れざる様申し渡し、請印これを取り差出すべくと仰せ渡され、承知畏り奉り候。これに依って御請書差上げ申すところ件の如し。
慶応四辰年正月十二日
(赤法花、染谷良雄家文書)
この一片の通達がどのような効果をもたらしたかは分からないが、とにかく幕末期には都市農村を問わず、時局の不安定が反影して不穏な空気がただよっていたことは事実である。北総地方の農村においても前掲史料によって見られるように、農民の「世直し」的動揺は多くあったようであるが、それが一揆暴動にまで発展しなかったことは幸いであった。