慶応四年(一八六八)正月、鳥羽、伏見の敗戦によって徳川幕府は名実ともに瓦解し、ついで征東軍が東海、東山の両道を制圧して関東に迫り、新たに鎮撫府を置いて民心の安寧をはかり、それとともに三月には太政官から有名な「御一新の御定書」が出された。
定
一、人たるもの五倫(註、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)の道を正しくすべき事。
一、鰥寡孤独廃疾(かんかこどくはいしつ)(註、妻のない老夫、夫のない老婦人、親のない子、廃疾の病人)のものを憫むべき事。
一、人を殺し、家を焼き、賊を盗む等の悪業あるまじき事。
慶応四年三月
太政官
この「定」は三月十四日、五ケ条の御誓文とともに全国に布告されたもので、その条文が三ケ条から成っているのが特徴である。それは漢の高祖が秦を亡ぼしたとき、今までの秦の苛法を改め、ただ法三章をもって天下を治めんとした故事にならい、起草者が発想したものと思われる。高祖が宣言した法三章とは「人を殺す者は死、人を傷つけ及び盗みをするは罪に抵(いた)さん」というである。
またこの「定」についで新政府はさらに王政一新の意義を明らかにした「教示の大意」を公布し、民心の向うところを示した。
教示の大意
そもそもこの度、王政御一新と申すは、万民の疾苦を救い、各自安堵候ようとの宸慮に候ところ、下々には御趣意を感戴し奉り、或いは心得違い等いたし、僅々徳川三百年の恩顧を思い、日本開闢(かいびゃく)以来天朝数千年の鴻恩を忘れ候ものもこれあり、殊には徳川は天朝の役人にて、徳川の恩はすなわちこれ天朝の恩なることを知らず、愚昧のはなはだしきにあらずや、慶喜には恭順謹慎二念なきところより、既に家名相続も仰せつけられ候ところ、徳川の恩に報ゆるなどと唱え、却(かえ)って王師に抗するは上(かみ)天朝にそむき、天朝のみならず下(しも)慶喜の志にもどり、大逆無道速かに誅裁を加え、天地の間に容れざるものとなり。[ ]は村方役の者として右等の次第精々申し諭し、御趣意の程貫徹し、忠義孝悌農商おのおの其の職業に安堵いたし候よう仕るべく候。自然教諭の旨も相用いず、猶悪行等働き候者これあるに於ては急速訴出ずべく候。若し隠し置き候へば役の者落度たるべきものなり。
慶応四年七月
下総野(註、下総、野州)
鎮撫府
右、御教示の趣き小前末々まで洩れなきよう申しわたし仕るべく候。
村々役人
(水海道市、秋場家文書)
右の布告は要するに、いままで幕府が行っていた政治も、元をただせば天皇が幕府に委任していた政治であったのを、このたび王政御一新によって本来の姿たる天皇の政治に返ったものである。それにしても永年幕府政治がつづいていたため、人びとは幕府あって朝廷のあるを忘れ、将軍の威を知って天皇の尊きを知らないようになった。そこでこのたび王政復古となったので、政治は直接天皇によって行われることになったから、ひたすら御一新の方針にしたがい各自その分に応じて職業につとめ、かりそめにもこの布告の教諭に背くことのないようにとうたいあげ、王政復古の意義を強調したものである。