行政機関の改変

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 慶応四年(一八六八)六月、新政府は旧幕府領及び旗本領を召し上げ、新たな支配形態をつくるため藩領はそのまま存置し、召し上げた所領のうち常陸国には常陸県、下総国には下総県という県制を布き、その県に県事務管という官制を設け、知県事と称する長官を任命した。当時、現在の茨城県内には水戸三五万石の水戸藩を筆頭に、土浦九万五千石の土屋藩、古河八万石の土井藩、笠間八万石の牧野藩、石岡二万石の松平藩、松岡二万五千石の中山藩、下館二万石の石川藩、結城一万八千石の水野藩、谷田部一万六千石の細川藩、牛久一万石の山口藩宍戸一万石の松平藩、下妻一万石の井上藩、麻生一万石の新圧藩、志筑一万石の本堂藩などがあり、さらに県内に飛地領を持つ他国の大名は一八藩にも及んでいた。これら諸藩の領地以外はすべて幕府領と旗本領それに若干の寺社領があったのみで、そのうち幕府領は多く現在の猿島郡と稲敷郡の南部に集中し、さらに真壁、筑波、新治、稲敷北部、北相馬、結城、猿島の各郡のうち僅少の藩領を除く以外はほとんど幕府領、旗本領によって占められていた。そこで新政府はその地域に常陸県、下総県と国名を冠した県を置き、そこに知県事を任命したことは前述のとおりである。このとき守谷町は下総国に属していたので、下総県事務管の管下に置かれたことはいうまでもない。しかし、以上のように藩領以外の地域に県制を設けたが、当時の行政管区関係は、県制を設けた地域にもなお諸藩の飛地領が介在し、ややもすれば県と藩とが相交って複合支配も行われ、そのため混乱をきたすおそれも生じたので、政府はその弊害をのぞくべく、明治二年(一八六九)二月、下総県事務管の制度を廃し、北総地方の一部に葛飾県を置き、その県庁を現在の千葉県流山市に設け、初代の知県事に芸州広島藩士佐々貞之允を任命した。
 越えて明治四年(一八七一)七月廃藩置県が行われ、その年十一月、葛飾県は下総国のうち結城、猿島、岡田、豊田、相馬の五郡を含めて印旛県と改められた。その後また明治六年(一八七三)六月、印旛県は木更津県と合併して千葉県となり、さらに明治八年(一八七五)千葉県のうち旧印旛県に属していた前記五郡を茨城県に編入したので、ここにはじめて守谷町は茨城県に帰属して現在に及んでいるのである。なおそのとき、相馬郡を南北に分割し、南相馬郡は千葉県に、北相馬郡は茨城県に属することになったが、千葉県に属した南相馬郡は明治二十八年(一八九五)三月、東葛飾郡と合併してその呼称を失った。