戸長及び大小区制の誕生

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 明治五年(一八七二)四月、政府は行政機構改革の一環として従来の名主、組頭、百姓代など地方(じかた)三役を廃し、新たに戸長、副戸長を設け、次いで同年九月、さらに大区、小区制を地方区画制度として実施するや、先に任命した戸長、副戸長は一応免職され、改めて再びその職に任用されることになった。これについては『当区内邨(むら)々役人召出され、戸長、副戸長の役を仰せつけられ候節の書類扣』によって明らかにされている。
   今般仰せ出さるるの趣きもこれあり、大庄屋、庄屋、名主、年寄等都(すべ)て相廃し、正副戸長、頭取等更に申しつけ、別冊職制の通り事務取扱い候事。
   但、今般改て戸長、副戸長申しつべく候につき、従前戸長、副戸長は勿論邨宿役人ども都(すべ)て免職と相心得べく候事。
  一、従前戸長、副戸長、駅宿役人ども免職については、従前宿邨方旧記書類は勿論役人取扱い候一切の書類其の土地についての申し送り等都(すべ)て遺漏なく取調べ請取り渡し致すべく候事。
  一、確定致し置き申すべく其の邨名、引受人の人名一小区限り半紙竪帳に相認(したた)め本庁へ差出すべく候事。
  一、本来仮定め候大小区実施不便の向もこれある趣き相聞こえ候間、今般更に熟議の上左の通り相定め候事。
    第一大区 葛飾郡の内分け十小区
    第二大区 同郡の内分け一三小区
    第三大区 猿島、結城全郡合併分け十一小区
    第四大区 岡田、豊田全郡合併分け七小区
    第五大区 相馬、印旛郡の内全部合併分け十二小区
    第六大区 印旛郡の内、埴生郡合併分け十一小区
    第七大区 千葉郡全郡分け十小区
     但、小区の一区分村名等は委細戸長、頭取より通達これあるべく候事。
  一、右の通り改正相成り候上は今日の呼称は勿論、公私文書、肩書等都(すべ)て改正大小区の号を相用い申すべき事。
   但、人民出入戸籍の調べに限り、来る六ケ年目戸籍改正は本年編制の戸籍に依り取調べ申すべき事。
  一、従前相用い候回状順は相廃し、自今布達の類都て戸長、頭取へ相達し候条、頭取居村より順次相立て遅滞なく区内回達致すべき事。
   但、時急に寄(よ)り隣区合併相達し候儀もこれあるべく候事。
  右の条々一小区限り小前末々まで洩れなく相達すべく候なり。
    壬申九月(明治五年)
              印旛県庁
                          戸長、頭取中
                                  (大木新田<現、東京>高梨輝憲家文書)
  (附記)
   「○○郡の内分け○小区」というのは、○○郡を○小区に分ける意、また、「第四大区、岡田、豊田全郡」は、岡田、豊田の両郡はのちに結城郡に合併。「第六大区、埴生郡」はのちに印旛郡に合併。
 さて、大区・小区制の実施によって相馬郡全部と印旛郡の一部が第五大区となり、その区域に一二の小区が設けられたが、その一二小区のうち現在の守谷町周辺は七小区となった。しかし、第二章四節に掲出した『第十四大区六小区廿三村町沿革』には現守谷町周辺は第一四大区六小区となっている。それはその後『本来仮定候大小区実地不便の向もこれある趣き相聞え候間、今般更に熟議の上左の通り相定め候事』との理由で、大小区制を再編制したとき、現守谷町周辺は第五大区七小区となったのである。とにかくこのように大区・小区制が成立したので、それにともない先に任命した戸長、副戸長を再編制して大区・小区制に合せて任命することになった。そのとき守谷町が属する小区では次の者がそれにあたった。

当区内邨方役人被在出戸帳副戸長之役ヲ被申付候節之書類扣


取締組合議定連印帳