戸長、副戸長は中央集権国家における一官僚としての地位を得、数か村連合して戸長役場を設けて行政事務を管掌していたが、江戸時代の村役人が領主権力の下で村落支配の末端機関であると同時に、村民の代表としての役割をもっていたのに比べ、その職務内容が国家機関としての性格を帯び、しかも大きく拡大されたことによって、その管掌する職務は政府、県庁など国家機関よりの布達に対す周知徹底、戸籍法に基づく戸籍の整備(江戸時代の人別帳の整備)、租税の徴収などは江戸時代の村役人が扱った職務と同じであるが、それに加えて政府の官僚となってからは小学校の設置、就学の奨励、徴兵事務の管掌など国家行政の分野にまで拡大されたことが、江戸時代の村役人とは大きく異なっていた。ところが、この正副戸長の地位がようやく国家官僚として社会全般にわたって重きをなすや、そのうちには国家権力を背景にしてややもすれば民意に反する行動に出る者もいた。そこで政府はその弊害をのぞくため、明治十一年(一八七八)七月、新たに郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則という三つの法律を制定し、民衆の地方政治への参加を認めることになった。以上の三法律はこれを三新法といい、明治維新後はじめて政府が民意を斟酌した画期的法律で、しかもこの新三法のうち郡区町村編制法は、従来の大区・小区制に相觝触する点も多かったので、ついにその制度を廃止することになった。また、正副戸長の制度はそれより十一年後、明治二十二年(一八八九)四月、「市制及び町村制」の実施にともなってこれも廃止し、それに代わって現在の市町村長制が布かれるようになったのである。