義倉とは古代律令時代における制度で、その目的は飢饉その他不時の災害または貧窮(ひんきゅう)者救済のため、米穀、大小麦、大小豆などの穀類を貯蓄して置く倉庫のことである。義倉に貯蓄する穀類は律令時代の制度によれば、一位の貴族より一般庶民にいたるまで、その財産の額によって一等から九等までに区分し、等級にしたがって二石から一斗まで醵出することになっていた。ところが古代の義倉は律令制度の衰退とともに廃絶し、以来数百年の間この制度は途絶(とだ)えたが、江戸時代にいたって再び興り、米沢、津軽、阿濃津などの諸藩ではこの制度を設けたことによって享保、天明、天保におこった大飢饉にはよくその機能を発揮したという。
義倉出穀三等帳
江戸時代、現在の守谷町周辺は幕府、大名、旗本の零細所領や分郷給所が多く、統一支配が行われていなかったため、義倉の設置などはもちろんなかった。しかし、明治新政府は民生の綏撫(すいぶ)とその安寧をはかるため、相互扶助、福利厚生施設としてこの義倉の効用を高く評価し、当時、新しく置かれた各県ではその名称は異なっていたが、同一目的の下にそれが設置されたのである。例えば小菅県の報恩社制度、品川県の積立米制度などがそれである。