義倉穀書上帳
下総国相馬郡大木新田
一、稗五石四斗
此俵拾弐俵 但し四斗五升入
内
一、稗弐俵 出穀入 小右衛門 印
一、同弐俵 同 長左衛門 印
一、同弐俵 同 平兵衛 印
一、同弐俵 同 清蔵 印
一、同壱俵 同 八左衛門 印
一、同壱俵 同 源八 印
一、同壱俵 同 七右衛門 印
一、同壱俵 同 吉右衛門 印
〆 稗 拾弐俵
右の通り相違御座なく候。以上。
明治三午年三月
下総国相馬郡大木新田
組頭 長左衛門 印
名主 小右衛門 印
葛飾県
御役所
この史料は大木新田戸数一七軒のうち、八軒の者が義倉穀として醵出した記録である。こうして集めた義倉穀は飢饉、災害の場合はもちろん貧窮者救済のためにも貸付を行った。その貸付は個人に対しても、また村全体に対しても行われたので、借りた場合は期限内に一定の利息をつけて返済することになっていた。
拝借し奉る管内義倉証文の事
一、金四拾両也
下総国相馬郡大木新田
内
金五両也 拝借人 高梨文五郎
受人 戸張平吉
金五両也 拝借人 武藤才一郎
受人 同 菊八郎
金八両也 拝借人 坂藤四郎
受人 戸張新八
金弐拾弐両也 拝借人 大塚孫七
受人 木村新六
合金四拾両也
右は今般管内義倉金の内、前書の通り願い奉り、私ども銘々拝借仕り候ところ相違御座なく候。返納の儀は来る九月限り元金へ利息を加え、急度御返納仕るべく候。万一当人相滞り候はば親類組合にて弁納仕り、聊かも義倉御規則に相触れざる様仕るべく候。之によって差上げ奉る拝借証文くだんの如し。
明治四辛未年七月
右
百姓代 坂倉次 印
組頭 野口長一郎 印
名主 高梨孝三郎 印
葛飾県
御役所
(大木新田(<現、東京>)高梨輝憲家文書)
管内義倉拝借証文
これは個人で借りた場合のものであるが、次には村全体で借りる場合の願書と拝借証文を掲げることにしよう。
恐れながら書付を以って
願い上げ奉り候。
下総国相馬郡大木新田
一、戸数 捨八軒
此の人員百拾八人
内 男 五拾八人
女 六拾人
右村役人左の名前の者ども一同申し上げ奉り候。私ども村方の儀田畑永年水災にて難渋至極仕り、是まで再応御救助御拝借仰せつけられ、小前一同有がたく取り続きまかりあり候へども、追々盛農の時節に相成り、扶持手当に差支え、余儀なく今般管内義倉金穀御拝借仰せつけられ度願い上げ奉り候。何卒格別の御仁恤(じんじゅう)を以って前書願いの通り御聞済み成り下し置かれ度願い上げ奉り候。
明治四辛未年四月
右村
百姓代 坂倉次 印
組頭 野口長一郎 印
名主 高梨孝三郎 印
葛飾県
義倉掛 御役人中様
(大木新田<現、東京>高梨輝憲家文書)
この願書は大木新田全体で金四〇両を借りるためのものである。これに対して役所では願いどおり貸し与えたので、大木新田では次のような証文を提出した。
拝借し奉る管内義倉金証文の事
一、金四拾両也
右は私ども村方去る午年(うまどし)(註、明治三年)皆水腐れにつき願いの上、今般管内義倉金の内書面の通り拝借仰せつけられ、慥(たし)かに請取り奉り候。然る上は小前銘々に貸渡し拝借証文これを取り、追って御廻村の節差上げ奉るべく候。これによって差上げ奉る拝借証文くだんの如し。
明治四辛未年四月
右村
百姓代 坂倉次 印
組頭 野口長一郎 印
名主 高梨孝三郎 印
葛飾県
義倉掛 御役人中様
(大木新田<現、東京>高梨輝憲家文書)
明治三年一月、葛飾県に設置されたこの義倉制度は、その後いつまでつづけられたか明らかではないが、おそらく明治六年(一八七三)葛飾県=明治四年十一月、印旛県に改編=が千葉県に編入されたときに廃止になったのではないかと思う。
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