一、御一新につき、旧官名相成らず候趣き、明治三庚午十二月中御触れこれあり候につき、小前一同名前相改め候事。
一、右につき、明治三康午年十月より、一般に名字御免に相成り候事。
右は念のため控え置くものなり。
小右衛門改め
高梨孝三郎
是は旧官名にこれなく改めず候事。
木村新六
平兵衛改め
戸張平吉
小左衛門改め
高梨文五郎
六兵衛改め
戸張新八
長左衛門改め
野口長一郎
夏右衛門改め
武藤才一郎
海老原七右衛門改め
戸張嘉七郎
旧官名にこれなく改めず候事
須賀源八
浅右衛門改め
須賀浅吉
浅川八左衛門改め
武藤菊八郎
旧官名にこれなく改めず候事
大塚孫七
右同断
新島庄三郎
右同断
新島清蔵
五左衛門改め
坂藤四郎
吉右衛門改め
坂倉次
長右衛門改め
新島長三郎
前書の通り銘々承知の上改名致し候なり。
明治四辛未年正月十七日改る
相馬郡大木新田
名 主 高梨孝三郎
この史料に出ている旧官名とは左衛門、右衛門、兵衛のことで、その呼称は律令時代における官制として定められた六衛府に所属する官吏の職名である。それが律令制度の弛緩とともに私人の名前として使用されるようになった。ところが明治時代にはいると政府はいかなる理由によるものか、私人がみだりに官名を用いることを禁じ、従来左衛門、右衛門、兵衛を名乗る者に対して改名するよう命じたのである。しかし、その禁令はいつしか弛緩し、後にまたそれを名前として用いる者が出て現在に及んでいるのである。
政府は戸籍法制定のため庶民が苗字を用いることを許し、更に旧官名を改めさせるなどの措置を講じ、ようやく調査を各村単位、村役人に命じて行った。これについてもまた大木新田(現、東京)高梨輝憲家文書のうち『戸籍生年月日取調帳』より引くことにしよう。
天保七丙申年七月十二日出生
高梨孝三郎
壬申三十七歳
文化十一申戌年三月二日出生
ちか
壬申五十九歳
天保九戊戌年十月朔日出生
もよ
壬申三十五歳
慶応元乙丑二月廿七日出生
高梨和平
壬申八歳
明治元戊辰年正六日出生
まつ
壬申五歳
天保九戊戌年四月六日出生
高梨清八
壬申三十五歳
弘化三丙午年十月十三日出生
高梨権次
壬申廿七歳
嘉永二己酉年四月二十八日出生
高梨貞次
壬申廿四歳
嘉永三壬子年正月十五日出生
はる
壬申廿二歳
以上のほか、大木新田全体の住民の人別を調査した史料も残っている。しかし、本編ではそれをすべて省略することにした。
戸籍生年月日取調帳