学制取調委員の任命

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 明治二年(一八六九)二月、明治政府は諸府県施政順序という府県行政の基本方針を制定し、そのうちに「小学校ヲ設ル事」の一項を掲げた。この「小学校ヲ設ル事」は明治五年(一八七二)八月に発布された学制の先駆をなすもので、政府はすでにこの時点において、統一的学制の実施を企図していたのである。やがて明治五年一月、侍の文部卿大木喬任は太政官に対し、学制制定に関する計画を上申書として提出した。
  伏シテ惟(おもんみ)レバ国家ノ以テ富強安康ナル所以(ゆえん)ノモノ其ノ源、必ラズ世ノ文明人ノ才芸大イニ進長スルモノアルニヨラゼルハナシ。是ヲ以ッテ学校ノ設ケ、教育ノ法、其ノ道ヲ得ザルベカラズ、之ニ依ッテ今般学制学則ヲ一定シ、無用ノ雑学ヲ淘汰シ、大中小学ノ制例ヲ建立シ、文芸進長ノ方向ヲ開導仕り度存ジ奉リ候。(以下省略)
 わが国に文部省が設置されたのは明治四年(一八七一)七月である。この時点において政府は学制について相当検討していたものと見え、前記のような文部卿の上申書となったのである。そこで文部省ではこの上申書を受け、ただちに学制取調委員を任命し、学制に関する諸般の調査を行うことにした。取調委員は総員一二名であるが、そのうち文部少博士箕作麟祥は作州(現、岡山県)津山藩の儒者箕作院甫の孫で、幕末から明治中期にかけての歴史的人物として有名である。こうして任命された委員は直ちに調査研究にとりかかった結果、明治五年八月二日、太政官布告をもって発布されたのが「学制仰せ出され書」である。それによれば、
   人々自ラ其ノ身ヲ立テ其ノ産ヲ治メ其ノ業ヲ昌(さかん)ニシテ、以ツテ其ノ生ヲ遂グル所以ノモノハ他ナシ。身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ長ズルニヨルナリ。而シテ其ノ身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ長ズルハ学ニアラザレバ能ハズ。是レ学校ノ設ケアル所以ニシテ日用常行言語書算ヲ初メ、士官(注、ここでは武士、官吏のこと)農商工技芸及ビ法律、政治、天文、医療等ニ至ルマデ、凡ソ人ノ営ムトコロノ事、学アラザルナシ=中略=学問ハ士人以上ノ事トシ、農工商及ビ婦女子ニ至ツテハ之ヲ度外ニ置キ、学問ノ何物タルヲ弁ゼズ=中略=之ニ依ツテ今般文部省ニ於テ学制ヲ定メ、追々教則ヲモ改正布告ニ及ブベキニツキ、自今以後、一般ノ人民(華士族農工商及婦女子)必ラズ邑(むら)ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス。人ノ父兄タル者宜シク此ノ意ヲ体認シ、其ノ愛育ノ情ヲ厚クシ、其ノ子弟ヲシテ必ラズ学ニ従事セシメザルベカラザルモノナリ。
   高上ノ学ニ至テハ其ノ人ノ材能ニ任スト雖、幼童ノ子弟ハ男女ノ別ナク小学ニ従事セシメザルモノハ其ノ父兄ノ越度タルベキ事。(以下省略)
   右の通り仰せ出され候条、地方官に於て辺陬(へんすう)小民に至るまで洩れざる様、便宜解釈を加へ精細申し諭し、文部省規則に随ひ、学問普及致し候様方法を設け施行すべき事。
 これによってはじめて歴史的な学制は発布され、それに従って全国に学校を設けることになったが、民衆はこれに対してどのように対応したであろうか。