この学区制は同時に学校教育行政の単位と系統を示すもので、まず文部省が大学を直轄し、全国の学校教育をつかさどり、大学が地方官と協力して中・小学校を指導監督する仕組みになっていた。そして一中学区に地方長官の任命する「学事取締」一〇名前後を置き、その一名に二〇ないし三〇の小学区を分担させて、児童の就学奨励や学校の監督に当たらせることにした。このように文部省――大学――地方長官――学事取締と教育行政の系統化をはかり、中央集権の実現を目的としたが、当時各府県の財政はこれを維持するに足りるほど豊かではなかった。
政府は「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」といって、学問普及の大理想を振りかざし、新たに学制を布いたが、その学制による学校を建設するのに政府は一文も金を出さず、すべてこれを民衆の負担に任せたのである。これは、その当時、政府においても、西洋先進国の文物制度を採り入れることにいそがしく、その基礎となるべき財政措置を考えなかった結果ではないかと思う。
さて、学制は発布された。しかし、その学校を建設する費用やその他経営費について政府は面倒を見ない。それらはすべて民衆の負担であるといえば、学制に対する民衆の対応もまた自ら変らざるをえない。
学制発布のあった翌年、すなわち明治六年(一八七三)七月、政府は地租改正に関する条例を布告した。この地租改正というのは、これまで明治政府は江戸時代と同じように、租税はすべて米をそのまま年貢米として徴収していた。ところが現物徴収では年によって豊作や凶作があり、そのたびに年貢米の量がちがい、したがって安定した国家の財政を維持することができず、そこで財政の安定をはかるため、政府は現物徴収を改めて現金徴収することにした。これを地租改正という。その方法としてまず土地の面積を量り、これによって土地の価格をきめ、それに対して地券という土地の価格を記入した証書を発行した。この地券はのちの土地台帳に相当するものである。地租はこの地券に表示されている土地価格の一〇〇分の三を徴収することになったが、改正による新しい税率は江戸時代のそれに比較して少しも安くなっていないこと、それに現物納付に習慣づけられていたものが、急に現金納付になったことなどに不満をもつ者が多くなった。実際、当時の民衆は苛斂誅求(かれんちゅうきう)をもって苦しめられていた武家政治が倒れ、それに代わって明るい明治政府が生まれたので、少しは租税も軽くなると期待をかけていたのであるが、地租改正によってその期待は裏切られ、そのうえ徴兵令(明治五年十二月一日布告)による壮丁の徴発、学制による学校経費の負担など次から次へと行われる新政策は、必ずしも民意に添うものではなかった。
地券
当時、民衆は政府のこのような新政策に対して反感をもっていたのにかかわらず、それを押し切ってあえて学制による学校の設立を強行しようとしたので、民衆は学校問題ばかりではなく、他の新政策に対しても不平不満をいだいていたので、ついにそれが一揆として爆発するにいたったところもあった。
明治維新以後、明治十年(一八七七)九月、西南戦争が終結するまで、各地に発生した農民一揆は枚挙に遑ないほど多くあった。その農民一揆のうち学制発布以後の一揆には、必ずといってよいほど学校問題が一揆の抗争目標に加えられており、なかには学校問題だけをとりあげて蜂起した一揆もあった。最近、日本教育史専攻の山形大学の石島庸男教授は『維新変革における在村的諸潮流』という論文集のうちに「西讃農民蜂起と小学校毀焼事件」を寄せて、当時農民の学校問題に対する態度を明らかにしている。また、同じく学校制度史の権威である前東京学芸大学教授倉沢剛博士は、その著『小学校の歴史』において、明治初年におけるいくつかの学校反対闘争の実例を挙げている。さらに明治九年(一八七六)十一月から翌十二月にかけて蜂起した茨城県那珂郡、真壁郡の地租改正反対一揆には、地租改正反対をからませ、その要求項目に「学校賦課金ヲ廃シ官費ニ換エ」の条項をかかけている。つまり学校の経営費は民衆の負担であるから、それを官の負担に切り換えよという要求である。この茨城県の農民一揆はほとんど同時に蜂起した三重県の農民一揆とともに、明治初年の農民一揆としては最大級の規模をもって行われたもので、茨城県ではこれを鎮圧するために県下の警察官はもとより、水戸、土浦、笠間など旧藩の士族を動員してこれにあたらせたが、それでもなお鎮圧できず、ついに水戸監獄に収監中の兇悪囚人を釈放し、その囚人に対し「お前が一揆の群集にまぎれこみ、その首謀者の首を取って来たならば、お前の罪をゆるしてやろう」とそそのかし、ついにその首を取ることに成功したので、ようやく一揆を鎮圧することができたという。