当時、こうした社会情勢下にあったのにかかわらず、わが守谷町の一角には学校を設立して、政府の要望にこたえようとする動きもあった。それは第二五番中学区第三四番小学と第三五番小学の設立である。まず第三四番小学については、
官立学校伺
第十四大区六小区下総国相馬郡
第廿五番中学区第卅四番小学校
市之代村
同地村
赤法花村
戸数 五十三戸
人員 三百五十壱人
内
生徒 男女六十四人
但、六歳以上十三歳マデ
一、学校位置
右、市之代村百廿四番屋敷
西蔵寺 廃跡
坪数 拾五坪
畳数 三十五畳
一、第卅四番小学校名称 徳入
一、教員履歴
当御管下
下総国相馬郡市之代村寄留
僧侶 田中秀道
当戌五十年八月
大中小学等級卒業の証および師範学校卒業の免状これなく、当七年六月中、千葉県師範学校に於て御試験の上、授業生申しつけられ、教則御伝習相済み申し候。
一、小学校入費
金卅六円 教員給料。
但、壱人に付、一か月金三円
金七円 書籍、器械料。
金五円 薪炭、油、筆墨紙料其外諸雑費。
金二円 学校営繕費。
合計 金五拾円
一、生徒授業料
金三拾円七拾弐銭
生徒百六十四人授業料、但、一人に付、一か月金四銭。
右、出納差引
金拾九円二拾八銭
納の部不足。
内
金六拾四銭五厘、義倉積立金利足。
金拾八円六十三銭五厘、反別割。
右の通り設立仕り度此の段伺い奉り候なり。
明治七年
右 副戸長 長塚源造
同 飯島葦
同 染谷吉郎左衛門
千葉県令 柴原和殿
(赤法花、染谷良雄家文書)
この「伺」によって見られるように、当時学校を設立すればそれに対して国からの補助はまったくないため、すべてその地域で負担しなければならなかった。したがってこの史料にある「小学校入費」金五〇円に対して収入三〇円七二銭、差引一九円二八銭が不足となるが、その不足分は義倉積立穀の利息と反別割、すなわち農家各戸が所有する土地の所有高に応じ、学校経費を賦課してその不足を補う方法をとることにしてある。そこで前述のように那珂郡におこった農民一揆にはその要求項目に「学校賦課金ヲ廃シ官費ニ換エ」というような文句がもりこれまたのである。
次いで第三五番小学設立に関する史料を紹介することにしよう。
官立学校伺
第十四大区六小区
下総国相馬郡守谷町
第二十五番中学校区内 守谷町
第三十四番小学校区内 辰新田
第三十五番小学連区 奥山新田
小山村
第三十六番 市之代村
同地村
赤法花村
戸数 三百三十弐軒。
人員 千八百三十四人。(註、この戸数及び人員については疑問もあるが原史料のまま引用した)
内
生徒 男女弐百七拾九人。
但、六歳以上、十三歳以下。
一、学校位置
右、守谷町弐拾五番屋敷
糺嶺庵
坪数 廿五歩
畳数 五十畳
一、三十五番小学 名称
糺
一、教員履歴
小田県士族
下総国相馬郡守谷町寄留
森岡栄三郎
当戌三十壱歳
大中小学等級卒業の証および師範学校の免状これなし。第一大学区旧印旛県鴻台小学に入り、明治五年十一月より同六年一月まで都合三か月教科修業書二級算六級の仮免状取得。
一、小学校入費。
金百八円 教員給料。
但、一人に付、一か月四円五拾銭。
金三拾円 書籍、器械料。
金弐拾四円 薪炭、油、筆墨料其の他諸雑費。
金弐拾壱円 役夫給料。
合金弐百拾八円
一、生徒授業料。
金百円四拾四銭
生徒弐百七拾九人授業料。
但、壱人に付、一か月金三銭。
右、出納差引
金百拾七円五拾六銭
納の部不足
内
金弐円五銭壱厘五毛 義倉積金利息。
金百円拾五銭八厘五毛 反別割。
右の通り設立仕り度此の段伺い奉り候なり。
明治七年三月
右第十四大区六小区
副戸長 染谷吉郎右衛門
同 飯島葦
同 長塚源造
同 原田重左衛門
同 滝本吉左衛門
同 渡辺忠志
同 田中茂平
戸長 斎藤徳左
区長 平尾譲吉
千葉県知事 柴原和殿
(赤法花、染谷良雄家文書)
学制発布よりいくばくもなく守谷町における小学校は、まず第三四番徳入学校、第三五番糺学校の設立によってはじめられたが、間もなく徳入学校は学区連合によって糺学校に吸収され、その後、糺学校は分校を愛宕と市之代に置き、愛宕の分校を奥山学校、市之代の分校を西前学校と称した。また、糺学校は明治七年(一八七四)十一月、守谷町上町の雲天寺にうつしてこれを中山学校と称し、翌八年三月、更に仲町に校舎を新築してはじめて守谷学校と名づけ、現在の守谷小学校の前身となったのである。