学校制度の変更と教員の養成

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 当時の学校は明治五年に公布した「小学教則」に基づき、小学を上下二等に分け、それをまた各八級に割り、下等の八級から上等の一級にいたるまで一級ごとの期間を六か月とし、毎週日曜日をのぞき一日五時間、一週三〇時間を授業時間とした。また、学制が布かれた当初は学校教員を養成する施設もなかったので、急遽師範学校に関する規定を設け、官立の師範学校を東京、京都、宮城、愛知、広島の各府県に設けた。しかるにその後二、三年にして財政上の事情からその学校を各府県に移管することになった。しかし、その間学校教員はどうしても充足しなければならないので、東京をはじめ各地に小学教員講習所を設け、入学希望者をつのって教員の速成教育を行うことになった。そこでかつての寺子屋師匠も官立学校の教師になる以上は、新教育に適応する教養を身につけるべく、再教育をうけなければならなかったので、寺子屋の師匠たちはこぞって教育講習所へ入学した。このとき守谷町から森岡栄三郎、大木村から神宮道斎らが入学して教師の資格を得たのである。講習所における講習期間は原則として五か月であるが、特別の事情ある者は多少の長短はあったらしい。講習を終了すると講習期間中の成績と学歴を考査し、一等授業生から三等授業生までの資格が与えられた。また、一等から三等までの間に「格」という特別の資格もあった。たとえば一等授業生格といえば、二等授業生より上位であるが一等授業生よりやや劣るというものである。

明治7年小学校教科書

 学制が布かれた当初、守谷町の学校に赴任した教師はいずれも教員講習所で速成教育をうけた授業生であったが、そのうちでも森岡栄三郎は元備中松山(現、岡山県高梁(たかはし)市)藩士で、青年のころ江戸の昌平黌(しょうへいこう)(註、幕府の学問所で当時の最高学府)に学び、明治維新後、猿島郡辺田(へた)村(現、岩井市)にうつり、素封家中山元成の家に出入していたころ、同家に寄宿していた守谷町の斎藤斐のために学問を授けた縁故で、のちに斎藤家に転居し、その一室を借りて有余塾を開いて子弟を教授していた。やがて学制が実施されるや新たに守谷町に設けられた糺学校の教師になったが、間もなくこれを辞し、かつて同藩の出身でしかも昌平黌の先輩にあたる三島毅が新治裁判所長になっていたのを頼り同裁判所の書記官になった。しかし、いかなる事情があってか森岡はその職にも永くとどまらず、再び守谷町に帰り、こんどは野木崎小学校の教師になった。それ以来永く同地にとどまり学校教員を勤めていたが、師範学校を出ていないため訓導(註、現在の教諭)になれず、それでも晩年にいたってようやくその資格を得、七十余歳で亡くなった。それは大正初期のころである。さらにこの森岡は俳句を好み、号を東籬といい、明治中期以降北総の俳壇では相当著名な俳人として知られていた。
   色かえぬ千とせの夜や庭の松
   草さひに染らて汲むや菊の酒
 など数篇の作品がのこされている。
 ちなみに森岡の先輩で新治裁判所長であった三島毅は号を中洲と称し、明治時代の漢学者で、のちに東京帝国大学教授、官中顧問官などを歴任し、現在、東京九段にある二松学舎大学の創始者として知られている人物である。