明治五年(一八七二)四月、政府は行政機構改革の一環として従来の名主、組頭、百姓代などの地方(じかた)三役を廃し、新たに戸長、副戸長の制度を設け、行政機関とし戸長役場を置き、次いで同年九月、大区小区制を地方区画制度として実施したことは既に第八章三節において述べたとおりであるが、その大区小区制も明治十一年(一八七八)三月、郡区町村編制法の実施によって廃止されて町村制はまた旧に復した。しかし、その後しばらくの間、旧村落組織のまま行政の基礎的単位として存置されていたが、この時期になると国家はすでに完全な中央集権的国家として成熟し、江戸時代のように封建国家の域を全く脱却したので、政府はこの町村の機関を通じて国政事務の完遂を期すため、町村は自治団体であるとともに国の行政区画でもあるとの認識をふかめることになり、翌、明治十二年(一八七九)には区町会法を施行してその役割を分担させることになった。その後明治十七年(一八八四)に同法の改正が行われたが、翌十八年には全国における町村数は約七万を数えるにいたった。しかし、一町村の平均人口は約五〇〇人という小規模なもので、しかも一戸長役場が管轄する町村はおおむね五か町村としていたので、したがって政府が行政上の目的とする自治団体と、現実の町村とのへだたりが大きく、その機能を完全に遂行することができなくなった。そこでその弊害をのぞくため、明治二十一年(一八八八)六月十三日、内務大臣訓令第三五二号をもって各地方長官に対して町村合併の標準を示し、翌二十二年四月一日実施を目標に全国の町村を再編制するよう指示した。これによって各府県では早速右の訓令に基づいて町村の合併を行い、その結果明治二十一年十二月末日における町村数七万一、三一四に対し、二十二年十二月末日には五万五、四九四に減じ、ほぼ所期の目的を達することができたのである。このとき守谷町における整理統合の状況は次のとおりである。
旧守谷町一町。小山村、奥山新田。赤法花村の三村は訓令以前に合併。
旧大柏村、旧野木崎二村合併、大野村となる。
旧高野村、旧乙子村、旧鈴塚村三村合併、高野村となる。
旧大木村、旧大山新田、旧立沢村、旧板戸井村四村合併、大井沢村となる。
大木新田は訓令以前に大木村に合併。