利根運河の開通

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寛永年間(一六二四―四三)、新たに鬼怒川が開削され、野州(現、栃木県)方面の物資が利根水系をたどって直接江戸に輸送されるようになったことはすでに述べたとおりである。ところが時代はうつり、それが明治時代に入ると文明開化と資本主義の勃興に促がされ、その水系を背景にして発達した水運はたちまち近代企業として時代の脚光を浴びることになった。まず明治十年(一八七七)二月、内国通運株式会社は(現、日本通運株式会社)は従来の和船に代わって新造の汽船数隻を中部関東の江戸川、赤堀川、渡良瀬川、及び利根川上流に投入し、新たに群馬県川俣(現、明和村)栃木県笹良橋(現在地、不明)方面にまで航路を開き、大いに運輪の便をはかることになった。
 現在、常磐線柏駅から東武鉄道の大宮行きにのりかえ、四つ目に運河という駅がある。その駅から北方約二〇〇メートルのところに台地を開削した一条の河川が横たわっている。これを利根運河という。この運河は明治二十年(一八八七)十一月、かつての茨城県令(註、現在の知事)人見寧(やすし)、茨城県人色川誠一、同北相馬郡下高井村の人で県会議員、北相馬郡長などをつとめたことのある広瀬誠一郎らによってつくられた利根運河株式会社が開削したもので、その設計はオランダ人技師ムルテルが担当し、工事は工学士近藤仙太郎が監督して、二年有余の歳月を経て明治二十三年(一八九〇)二月に竣工したものである。
 この利根運河の開通は東関東における利根川水運に革命的な変革をもたらした。すなわち、運河が開通する以前は第四章四節で述べたように、利根、江戸両川の分流点たる関宿より下流の利根水系を利用する舟運は、すべて関宿まで遡行しなければならなかったのを、運河の開通によって江戸川に直結するようになり、その航程は短縮され同時に時間と労力も大いに省けることになったのである。
 これより先、明治十四年(一八八一)五月、岡本吉兵衛なる者、銚子汽船株式会社を創立し、千葉県銚子町(現、銚子市)より同県印旛郡木下(現、印西町)間に銚子丸という汽船を運航することになった。その後銚子丸は同県東葛飾郡三ツ掘(現、野田市)まで航路を延長することなり、下利根川流域は銚子汽船株式会社の営業圏としたので、これに対し内国通運株式会社は江戸川流域を営業圏とすることについて、両社締約を結ぶことになった。しかるに利根運河の開通はこの両社の締約ににわかに破綻をきたし、両社ともにこの運河を利用し、内国通運は下利根川流域方面へ、また、銚子汽船は東京方面へ進出をこころみようとして相競うことになったが、明治二十八年(一八九五)二月、両社の間に妥協が成立し、東京、銚子間及び銚子、高浜、佐原、鉾田間の航路は銚子汽船が営業権を持ち、その他すでに内国通運が開拓した地域は同社の既得権を認めることになった。このとき内国通運は新たに鬼怒川流域水海道町まで航路を延長したことは、この地方の文化開発のため特筆すべきことがらである。
 内国通運株式会社が運航した汽船は通運丸といい、この汽船の航路が新たに水海道まで開かれると、現在の守谷町における最初の寄航場は野木崎で、次は大木であった。寄航場には「汽船取扱人」という会社から依嘱された職員がいて、乗客及び貨物に関する一切の事務を管掌していた。野木崎寄航場の取扱人は椎名和四郎、大木寄航場の取扱人は市村丈八であったが、その市村丈八はのちに東京へ出で、自転車工場を始めて相当成功した人である。
 また、大木の次の寄航場は寺畑である。ちなみに、鬼怒川に航路が開かれた当初は野木崎から直ちに利根川を遡行して菅生沼に入り、観音川岸、菅生、反町へ寄航し、反転して大木にいたったようであるが、大正初期における利根、鬼怒両川の河道改修工事の結果、その航路は廃止になったものと見える。