通運丸の構造とその終末

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 通運丸は河川航行のために特に設計された外輪船である。その設計にあたった技師は石川島造船所(現、石川島播磨重工業株式会社)の創始者平野富二である。この平野は旧幕臣でかつて長崎奉行の配下となり、蘭学と航海術を学び、のちに前記の造船所を設けた人である。昭和前期における進歩的経済学者平野義太郎はこの富二の孫にあたる人だという。通運丸の構造はその中央部が機関室で、大きなエンジンが据えつけられていたが、機関は蒸気作動なので発動機とちがいあまり振動はなく、乗り心地はきわめてよかった。客室は上等と並等にわかれ、上等は舳(へさき)のほうにあり、並等は艫(とも)のほうにあった。並等と機関室の間に狭い部屋があったが、そこには会計さんという船長に次ぐ地位の船員がいて、船内の事務や船客に対するサービスを仕事としていた。また、その部屋には駄菓子やラムネなどをならべ、客の需めによっては弁当も調製した。弁当といっても汽車弁のような折詰ではなく、むかし、一膳めし屋でよく使った木製の仕切りのある箱に飯を盛り、副食物は主に佃煮類であった。
 その通運丸も大正二年(一九一三)十月、いまの関東鉄道常総線が開通されるとともに、運輸交通の王座は鉄道にゆずらなければならなくなり、ついに大正七、八年ごろをもって通運丸は鬼怒川はもとより、利根水系からもその姿を消すことになった。