幻の関東中央鉄道株式会社

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 明治二十九年(一八九六)十二月二十日、現在の常磐線が東京府北豊島郡田端(現、東京都北区)を起点として茨城県土浦まで日本鉄道株式会社によって運行されることになった。取手駅はそのとき設けられたものである。その後、明治三十九年(一九〇六)三月、政府は国有鉄道法を公布し、国内一七路線の買収を実施することになり、日本鉄道もまたその買収の対象となったので、同年十月、会社は解散し、その保有する一切の施設はすべて国有に帰し、翌四十年十一月をもって常磐線は完全に国営企業となった。
 以前、水海道市内の旧家から集めた古い記録のうちに、関東中央鉄道株式会社に関するものを発見した。その記録によると、この鉄道会社は明治二十九年、茨城県内外の有力者によって計画されたもので、現在の水戸線岩瀬駅を分岐点とし、筑波郡北條町を経て結城郡水海道町にいたるまで、これは茨城県の西南部を南北に貫いた地帯に鉄道を敷設し、旅客の便と物資の輸送を目的としたものである。それはいうまでもなく真壁、筑波両郡の農村は古来関東の穀倉地帯といわれているにもかかわらず、交通の便は陸上、水上ともにまことに乏しく、鉄道は明治二十二年(一八八九)一月、現在の水戸線が小山、水戸間に開通されたが、その沿線より遠くはなれた地方では大量輸送の便はまったくなく、わずかに車馬に頼(よ)るほかはなかった。そこで未開発農村開発事業の一環としてこの鉄道計画が樹(た)てられたもので、しかもその鉄道の終点を水海道町にもとめたのは、けだし、古来、水海道町が鬼怒川水運の要衝にあたり、その先は水運によって東京方面への運輸は容易であるとの見込みをつけての結果であったと思う。
 この鉄道会社のことについては富村登著『常総文化史年表』に次のような記事が載っている。
   明治三十年七月、常総鉄道(中央鉄道の誤りか)重役決定す。
  社長 飯村丈三郎 取締役 川崎八右衛門 斎藤斐 菊池長四郎 東村守節 監査役 郷誠之助 高橋矩常 秋場庸 相談役 渡辺治右衛門 川崎財閥にすがったので、川崎の大番頭飯村が社長と決ったが、株金の払込不能で会社は解散。(原文のまま)
 とある。以上会社の重役として挙げられた人物のうち、飯村丈三郎は千代川村出身の政治家、斎藤斐は守谷町出身の実業家、ともに茨城県史の上に没すべからざる人物、さらに郷誠之助にいたっては大正期より昭和期にかけ政界、財界において大御所的重鎮として存在した歴史的人物である。
 こうして、関東中央鉄道株式会社はせっかく創立したものの、株式の払込みが不調に終ったため幻の鉄道会社となり、その実現を見るにいたらなかった。それはやはり同年十二月、日本鉄道株式会社が営業を開始し、すでに土浦より以遠友部まで開通していた鉄道に接続し、ついに県都水戸まで常磐線が全線開通したことなどの影響も多分にあったものと思われる。