常総鉄道株式会社

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 それはさておき、政府は一方において鉄道の国有化をはかるとともに、他方においては幹線鉄道の培養線たる地方鉄道の敷設を奨励し、明治四十三年(一九一〇)四月、軽便鉄道法を公布し、さらにその翌年三月、軽便鉄道補助法を制定し、小規模私鉄の建設に補助金を交附する制度を設けてその育成に力をつくすことになった。
 当時、茨城県西南五郡(真壁、筑波、結城、猿島、北相馬)は、西に東北本線、東に常磐線、北に水戸線があって幹線はほぼ整っていたが、その中間にある地方はその利便に浴すること極めて薄く、そのため前期のように関東中央鉄道株式会社の創立なども企図されたのである。しかし、たまたま軽便鉄道法及び軽便鉄道補助法の施行により、この地方に再び交通問題が浮上し、改めて県内有力者の爼上にのることになり、その結果、現在の関東鉄道株式会社の前身たる常総軽便鉄道株式会社が創立されたのである。
 この会社はまず明治四十四年(一九一一)、四七名の有志が発起人となって政府に会社創立の申請書を提出し、同年十一月一日、その免許がおりたためここにはじめて業務を開始することになった。このとき会社の役員となったのは社長竹内綱、専務取締役笠井愛次郎、常務取締役山中彦兵衛、取締役田中元三郎、沼尻権次郎、新井善次郎、野々村源四郎、監査役斎藤斐、浜名信平、大野清敬が就任し、明治四十五年(一九一二)六月本社を東京市麹区有楽町一丁目一番地三菱一七号館第三号舎に置き、同年七月、さらに支店を茨城県結城郡水海道町三三八八番地に設け、支店長は常務取締役の中山彦兵衛がこれを兼任した。
 すでに会社が設立されてその業務を開始するや、まず鉄道用地買収のため沿線住民の協力を得なければならなかった。そこで沿線各地に買収委員を委嘱してその協力を求めることになったが、土地所有者のうちには交通事業に理解を持たない者もいて、その買収には予想外の困難を見たという。当時、守谷町でこの買収委員を委嘱された人は田中春吉、田中茂平、斎藤仁三郎、下村高之助、斎藤芳太郎、野口貞三郎(以上、旧守谷町)海老原角次郎、海老原与兵衛(以上、旧大井沢村)小菅清作(旧高野村)らの人びとであった。
 工事は明治四十五年(一九一二)三月上旬路線の実測をはじめ、同年六月上旬にはすでにその作業も終り、翌大正二年(一九一三)二月十一日、時あたかも諒闇ではあったが紀元節の佳日を卜して水海道駅で起工式を行い同時に工事区域を八区に分ち、それぞれの工区で同年十月末日の完成を目途として工事を始めた。ところが守谷町附近は山林谷津など地形の変化はげしく、工事にすこぶる困難をきたしたが、その他の工区はほとんど平坦地で予定どおり工事もすすみ、ついに予定の期日までに取手、下館間五一・一キロ、全線の開通を見るにいたり、十一月三日開業のはこびとなったのである。
 さて、常総鉄道はこうして開通することになったが、この鉄道が最初守谷町に駅舎を設けるとき、その位置を会社側では町のほぼ中央部、すなわち現在の八坂神社附近に置く予定で路線を上裏(かみうら)(八坂神社の前、国道二九四号に通ずる道路の鉄道踏切附近)から、町中を経て内畑(うちばたけ)附近へ予定線を引いたが、内畑附近の地主が買収に応じなかったため、現在のような路線に変更されたと伝えられている。また、元来この鉄道は当時鬼怒川上流の太田郷(現、下館市)附近から採取される砂利、川砂及び沿線各地から生産される農産物を輸送するのが目的であったから、多分に産業線的性格をもち、旅客輸送はむしろ二次的なものであった。したがって十数両連結した列車も客車はわずか二、三両だった。それでも開業当初は二、三等という等級車もあった。これはいかに、当時の階級的社会意識が濃厚であったかを端的にあらわしたものといえよう。
 ちなみに、、初代社長の竹内綱は、戦後五期に亘って内閣総理大臣をつとめた吉田茂の実父で、土佐藩出身の政治家、実業家として知られた人物である。