太平洋戦争による敗戦という終末は、日本の社会に大きな変革をもたらした。農地改革もまたその一つである。
昭和二十年(一九四五)十二月二十九日、第一次農地改革に関する法律が公布され、我が国における農地制度はまったく一変した。農地改革というのは地主所有の農地を一括して政府が買い上げ、それをこんどは今まで地主から農地を借りて耕作していた小作人に買い取らせ、農地を均等に配分する政策のことである。これは終戦後日本を占領した連合軍総司令部が、日本の民主化をはかるために行った政策の大きな目標であった。
この重要な政策を行うにあたり、政府ははじめ相当の混乱が生じるものと憂慮されていたが、予想されたほどの混乱もなく、極めて平穏に行われたのは、連合軍という強大な力がその背後にあったからである。それである論者は、これを「無血革命」と呼んだ。
農地改革以前における我が国の農村構造は、広大な農地を所有する地主層、自家耕作に必要なだけの農地を所有する自作農層、自家所有の農地だけでは生活ができず、地主から一部農地を借りて小作する自作兼小作人農層、農地をまったく所有せず、すべて地主から農地を借り、その代償として収穫した米を現物で小作料として納める小作農層、そのほか労働力のみを提供して賃金を得る日傭取層などから成立していた。これらの階級構成は江戸時代の農村構造とまったく変化なく、特に地主層対小作人層との関係は、江戸時代そのままの封建的要素が極めて濃く、あたかも主人と使用人のような観を呈していた。
このように、農地改革以前の農村社会は、その体質がきわめて封建的且つ非民主的であったため、連合軍総司令部はそれを改革し、我が国の民主化を促進しようとして、日本政府に対し「農地改革に対する勧告」というかたちで覚書をつきつけ、その実行をせまったのである。これによって政府は連合軍総司令官マッカーサー元帥の指令によるという重圧を感じ、直ちに自作農創設特別措置法をはじめ、一連の関係法規を制定し、これを実施することになった。その結果、全国各都道府県をはじめ、その管下の市町村に農地委員会なるものが設けられたのである。この委員会は自作農創設特別装置法に基づき、農地の買収、売渡計画の立案、実施等に関する業務を行うもので、その構成は地主三名、自作二名、小作五名から成り、いずれも各層からの選挙によって任命された。
守谷町でも各旧村ごとに農地委員会が設けられたが、その活動状況が記録として残されているのは、旧大井沢だけのようである。