旧大井沢村の農地改革

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 いまその記録のなかから、農地委員会の使命の一端をうかがうことにしよう。
  大井沢村の農地改革促進についての報告をいたします。その前に、日本がどうして農地改革を行わなければならなかったについて、簡単に申しあげてみたいと思います。そもそも農地改革は連合軍最高司令官の対日理事会覚書に記録されている通り、「日本の農地改革は総合的民主化の目的に沿って、搾取的な小作制度の宿弊を取り除くの目的である、そのためには数世紀に亘る封建的上地制度のもとに苦しんできた日本農民を、奴隷化して来た経済的桎梏(しっこく)を打破しなければならない」と記録されています。前述の通り、農地改革は連合軍の占領政策中の絶対的至上命令であります。――中略――それで大井沢村の農地改革がどのように進んでいるかという事について御報告します。当村は県下標準三六ケ町村の一つに指定されまして、県当局も特に注意をむけていられるのであります。それだけに責任もありますので、事務方面にも慎重を期して準備してきましたが、昨年末に於て改革資料は完成しまして、大井沢村農地行政上の貴重なる資料を完備したのであります。之に要しました人員は農地改革地区補助員、中等学校生徒其の他調査員延べ人員にしまして千名以上、日数にしまして数ケ月を要したのであります。其の間に於きまして農地委員会を開きました回数は一六回であります。当村農地改革該当農地、即ち解放予定面積は実績表にあります通り一六六町歩であります、――中略――昭和二十三年二月現在に於きまして買収計画を終りました農地面積は一五二町歩でありまして、解放計画の概ね九二パーセントになりまして、残り一四町歩余約八パーセントは分筆上の事務手続きを要します。以下省略。(演説草稿原文のまま)
 これは旧大井沢村農地委員会が農地解放に関して一般の関心をたかめるとともに、これまでの経過を報告するため、大井沢小学校で演芸会を兼ねての席上、農地委員長であった斎藤藤之助が演説をした草稿で、その執筆者は委員会の書記古村喜一である。
 この農地改革は、戦後連合軍の日本占領政策の一環として全国一斉に行われたのであるが、我が国ではすでにその前期的動向として昭和元年(一九二六)、政府は自作農創設維持法補助規則を制定し、当時、農村問題としてますます深刻化しつつある小作問題の解決に資すべく乗り出した。しかし、窮乏に頻していた農村はこれを受け入れる余裕もなく、また、政府も積極的にその政策を遂行する熱意に欠け、更に土地資本家たる地主階級の反発にあい、その矛先は鈍化せざるをえなかった。こうして全国の農村はまったく沈滞のどん底に落ちこんでいたころ、守谷町、特に板戸井地区の一角に革新的農民運動の烽火が挙げられた。