板戸井地区に起った農民運動は、その端緒は昭和二年(一九二七)九月に起った千葉県野田町(現、野田市)にある野田醤油株式会社のストライキである。是より先、野田醤油には大正十年(一九二一)ごろ労働組合が結成され、日本労働総同盟に加入し、関東醸造労働組合野田支部として発足し、しばしば労使紛争をおこして相対立していた。ところが昭和二年九月十六日、また労使間に紛議が生じ、翌年四月十九日まで実に二百十六日間に亘る長期紛争が続いた。そのころ野田醤油には「醤油屋奉公」と称し、近郷近在から年季奉公的な雇傭契約で勤務する従業員が多くいたが、それらは主として寄宿舎に収容され、それ以外の者は農家の二、三男で自宅から通勤する者もいた。その通勤者のうち特に北相馬郡菅生村(現、水海道市)の村民が多かった。
野田醤油の労働争議は、そこに働く若い感受性のつよい労働者を刺激して、階級意識に目覚めさせた。小作人、労働者ともに資本主義の桎梏の下に喘(あえ)ぐ被搾取階級として、その境遇に共通するものがあった。そのころ菅生村の急進的小作人茂呂磯吉は先ず自覚した小作人を糾合して農民組合を組織することに成功した。菅生村における農民組合結成のことが隣村の大井沢村板戸井に伝わるや、板戸井でもたちまち三〇余名の小作人が、斎藤藤之助をリーダーとして農民運動の火の手を挙げた。爾来その農民運動は農地解放にいたるまで十数年、その間弾圧の嵐をうけながら、階級闘争に情熱をそそいだ不撓不屈の精神は、土に生きる農民の逞ましい闘魂としてたたえるべきであろう。
ちなみに野田醤油の労働争議は長期に亘り解決がつかなかったため、争議団の副団長堀越梅男が昭和三年(一九二八)三月二十日、天皇が葉山御用邸へ行幸の途上、東京駅附近において「千余名ノ赤子職ヲ失イテ路頭ニ迷ウ、伏シテ願クバ聖断ヲ仰ギ奉ル」との旨をしたためた訴状を捧げて直訴に及んだので、そのため労使ともに恐懼して争議はにわかに解決するにいたった。また、農地委員会は昭和二十六年(一九五一)、農業調整委員会、同改良委員会を統合して現在の農業委員会に改められたのである。