一町六か村より成る守谷町

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 はじめ守谷町の構想としては、守谷町を中心に高野村、大野村、大井沢村、小絹村、高井村、稲戸井村の一町六か村を合併し、当時の人口で一万九六一二人、世帯数で三四三二戸を擁するものであった。そこでまず守谷町長吉田亀次郎が主唱し、昭和二十九年(一九五四)五月七日、前記一町六か村から町村長、議会議長らを関係町村の代表者として一堂に会し、第一回の代表者会議を開くことにした。この席上守谷町長は町村合併についての趣旨、構想についての説明を行い、各代表の理解をもとめることにしたが、とにかく、事重大なのでにわかに決すべきものにあらずとし、各代表は一応帰村の上村民の意向を聞き、更に協議することにして散会した。その後同月二十六日にいたり、こんどは新たに一町六か村から成る「町村合併促進協議会」を結成し、各町村はその機関の決定によって態度を決めることになった。この協議会の構成は関係町村長をふくめた各町村一〇名の代表者による七〇名で、会長には守谷町長、副会長には各村長、部長には各町村代表者の互選によって選任された。
 こうして協議会において改めて一町六か村が協議した結果、高井、稲戸井、小絹の各村はその態度を決定するまでにいたらなかったため、とりあえず守谷町、高野村、大野村、大井沢村の一町三か村は村民の意向として即時合併に賛意を表した。かくして前記一町三か村は昭和二十九年(一九五四)八月六日、新町建設計画の骨子となるべき二五項の協定事項をつくり、さらに九月二十八日には新町名を一般公募によって「守谷町」と決定し、十一月十二日一町三か村の合同議会を招集し、その議決により十二月十三日をもって旧守谷町及び旧三か村を廃し、新たに守谷町を置き、昭和三十年(一九五五)三月一日よりこれを施行することにした。よってその旨県知事に申請したので、昭和三十年一月十三日附で県指令第八〇号をもって認可され、ここにはじめ合併の第一歩を踏み出すことになったのである。