斎藤斐
斐が寄宿していた中山家は斎藤家と同じく関宿藩領の名家で、当主元成(茶顛と号す)は早くから産業の開発の力をそそぎ、当時、我が国において輸出産業の花形といわれた製茶業に専念し、いわゆる「猿島茶」なるものの基盤をつくることに成功した人物である。したがって元成は極めて開明的であったため、自らすすんで西洋文明を採り入れる志があった。斐はこうした人物の下で育成され、その影響も多くうけたので西洋文化への志向を強くもつようになった。それがついに英学志望となってあらわれ、東京に出て、二、三の英学塾を経たのち、福沢諭吉の経営する三田の慶応義塾に学ぶことになった。
慶応義塾での勉学はやがて目を世界的展望に向けるようになった。明治初期の我が国にはまだ封建的色彩が色濃くのこり、国民の政治意識も一般的には高揚されず、その間にあって薩長を中核とする藩閥専制政治はいよいよ増長をきわめるにいたった。そこで明治七年(一八七四)四月、先に征韓論で西郷隆盛とともに破れた土佐の前参議板垣退助は、郷里に帰って同志をつのり、立志社を興して大いに藩閥専制政治を打破するため、自由民権運動を展開して青年の奮起をうながした。自由民権運動の究極の目的は国会の開設である。
斐はすすんで同志とともにこの運動に参加し、明治十三年(一八八〇)二月十五日、茨城県下の政治結社たる同舟社の呼びかけに応じ、常総地方の自由民権運動家が結集した筑波山会議には、斐は政治結社改進社の有志として参加した。時に斐年歯甫(はじめ)て二十五歳、これが実に政治運動に身を投ずる最初であった。その後斐は精力的に政治活動を行い、明治十四年(一八八一)には北相馬郡から県会議員に選出され、以後四回に亘って改選された。さらに明治二十五年(一八九二)二月、斐は国会議員に出馬して当選し、以後三回衆議院議員として国政に参与した。しかるに国会においては自由党や改進党と意見を異にし、同志とともに民党における別働隊として地位を保ち、同盟倶楽部を結成したがついに政界に志を得ず、第四回の総選挙には立候補を断念し、爾来専ら経済界において活躍することになった。