このほか太郎の業績にして世にあらわれたものは枚挙にいとまないほどあるが、すでに明治二十八年(一八九五)、高野村に農会が結成されたとき、若冠の身をもって会長に推されたのをはじめ、以来昭和四年(一九二九)三月、蚕種同業組合の名誉顧問に推せんされるまで、各種団体の役員または名誉職に推されること実に一七種にも及んでいる。これによってもいかにその識見が高く、人望に富んでいたかを知ることができるであろう。
しかし、こうして太郎が創始した大日本蚕業研究会講習所も、時代の推移に抗することを得ず、我が国蚕業界に不滅の業績をのこしたまま、やがてその使命を終え、大正十三年(一九二四)、第二四回の講習生を世に送ったのちついに閉鎖することになった。その理由の一つとして挙げられることは、国内情勢が製糸のような軽工業より鉄鋼のごとき重工業にうつり、したがって蚕業も往年のようにさかんでなくなったことなどがそれである。
こうして太郎の事業は一応終わりを告げることになったが、なお旺盛なる気力はさらに蚕業界に貢献しようとしてある事業計画を立てることになった。ところが昭和十年(一九三五)七月、にわかに嗣子実(みのる)を失い、身また六十路(むそじ)の坂を越えて人生の寂莫を感じ、怏怏としてたのしからざる日日を送るうち病を得、ついに昭和十一年(一九三六)五月十六日、幽冥境を異にするにいたった。時に齢六十五、前途なおいくばくかくの余命を保ち得たる身であるのに、まことに痛惜に堪えないものがあった。
太郎の長逝一たび業界に伝わるや、故人を追慕しその業績を後世に残そうとするものが多く、ついに「岩田太郎翁紀功碑建立賛助会」を結成し、その会員より資金を募ったところ、これに応ずる者ほとんと全国にわたり、遠く朝鮮からの応募者もあった。紀功碑は水戸市愛宕町にある茨城県蚕業試験場の構内に昭和十六年(一九四一)十一月に建立された。しかるに戦後、その蚕業試験場が真壁郡関城町へ移転したため碑もまたうつされ、現在はその構内にあるが、最近守谷町の有志によってその碑を太郎の故郷たる守谷町に移す運動がおこり、やがてそれが具体化することになる。
現在、我が国における養蚕業は必ずしも盛況を呈しているとはいえない。しかし、幕末から大正末期にいたるまで約半世紀の間、養蚕業が我が国の経済発展に寄与したことは歴史の証明するところである。その時期自ら率先して蚕業講習所を開き、国家に貢献した岩田太郎の業績は決して没することはできない。