昭和四~五年度
岡辰押切帳 孫六銖話、貨殖全集 岡辰大福帳
昭和六~七年度
黄金街を行く 宣伝時代 金脈太閤記 財界診断術 儲けた人々 新商売往来 貨殖百物語 壹万円物語 新投資術 新混同秘策 神算鬼謀術 千人力物語
昭和十年度
逆説法 着眼の天才 岡辰式絶好のチャンス 世渡り秘訣百ケ条
などである。
正世の父は孝輔といい天保八年(一八三七)野木崎村根崎の横瀬家に生まれ、長じて吉田家の嗣子となったものである。一説には孝輔は旧関宿藩士であったというがそれは誤りである。その孝輔若くして俳諧をたしなみ、有隣、不孤庵、四時庵等の俳号をもち、先に述べた森岡栄三郎の東籬とともに常総の俳壇にその名が知られていた。正世はその孝輔を父としその後妻矢野氏との間に明治二十二年(一八八九)一月二十二日に生まれた。ところが正世は父孝輔の文学的素質をそのままうけついたものか、長じて小学校に通うようになってから、その第四学年のころ、当時、水海道を中心にして地方俳人による句集がさかんに発行され、そのなかに『やまびこ』というのがあった。この俳誌には父孝輔も俳友として加わっていたので、正世はそれに感想文を投稿した。ところがその文章の勁抜にして妙を尽したる点、とうてい乳臭童子の作とも思われず、人びと感歎の声を放ちて止まなかったという。すすんで高等科に入るや、学業特に優秀、一学年を終えるや二学級特進して四学年に編入された。(註、当時小学校は尋常科四学年、高等科四学年であった。それが尋常科六学年、高等科二学年に改正になったのは明治四十年(一九〇七)三月「小学校令」公布以後のことである)正世は小学校を卒業してからもなお家業に従事し、その寸暇を得て広く多くの書籍を読み、独学で大いに勉強にはげんだという。やがて明治三十八年(一九〇五)、正世一七歳のとき、母の生家たる矢野家の養子に迎えられ、同時に同家を相続することになり、越えて明治四十二年(一九〇九)一月、吉原倫子と結婚して一女をもうけた。そのころ父孝輔は高野村乙子に製糸工場を創立してその経営にあたったが、事、志とたがい、その経営は成功せず、反って家産を傾けたが、正世はなお野木崎に止まって自分の家業たる菓子商を営んでいた。しかし、これもまた時運にめぐまれず衰頽の一途をたどるのみであった。そこで父は正世の前途を憂い、むしろ東京に出て家運の挽回をはかるべきであると勧めたので、ついに一家を挙げて上京することになった。当時の状況を知る古老の話では、「気の毒に正世さんは夜逃げ同様にして故郷を去った」と語っている。
矢野正世