明治四十四年(一九一一)上京した正世は小石川区白山前(現、文京区)に住んでいた義兄にあたる滝沢慎作方に寄食した。滝沢は正世の姉えい子の夫で、当時、万朝報という新聞社の社会部長であった。しかし、せっかく再起を期し志を懐いて上京した正世も、伏竜雲をえなければどうにもしようがなく、空しく轗軻(かんか)不遇をかこちながら米塩の資を得るためガス工事の穴掘り人夫をしたこともあったという。やがて一陽来福、大正二年(一九一三)伝手を得て東京毎夕新聞社に入社し、新聞人として再出発をはかるや、その才幹はたちまち社会部長永代静雄に認めるところとなり、編輯、営業などの各部を経て庶務部長、外交部長、地方通信部長の要職に上り、更に編輯局長、営業局長、副社長兼支配人としてその敏腕をふるうことになった。時に正世齢わずか三十二歳、まさに異例の出世ぶりというべきである。これより先、正世は大正七、八年(一九一八―九)ごろ「川柳」に関心をもち、自ら「錦浪」と号し雑誌『きん坊』を発行し、さらに文芸雑誌『白羽』などを主宰してさかんに文芸活動を行った時期もあった。そのころになると正世もすでに一応、社会的地位を得、生活も安定してきたので、多少後輩に対して生活上の援助や指導誘掖する余裕も出てきた。近代の文豪吉川英治も、かつてはしばしば正世の門を叩き、その庇護をうけたこともあった。これについては吉川英治著『忘れ残りの記=四半自叙伝=』(昭和三十七年十月十日初版)所載の年譜、大正十年の欄に次のような記載がある。
東京毎夕新聞営業局長の矢野錦浪に推され、同社家庭部に勤務。のち、学芸部をあわせてデスクを持つ。
とある。吉川英治が矢野正世の世話をうけたころ、正世は芝区三田四国町(現、港区三田)に居住し、その邸宅は土蔵などを改造して居間にした相当広い家であったらしい。現在、守谷町教育委員長松丸角治は学生時代、父が大野村の村長をつとめていたので、その下に正世の兄信次郎が役場の書記をしていた関係で、一時、角治を正世の家へ書生のようなかたちて寄宿させていたことがある。その角治の話によれば、吉川英治は時々正世の家を訪れ、夜遅くまで遊んでいたことがあったというから相当親しい仲であったらしい。
その後正世は大正十五年(一九二六)一月、東京毎夕新聞社を退き、新たに読売新聞社に営業部長として入社し、能く社長正力松太郎を助けて社業の発展につくし、その間、前記の著書を公にして文名ようやく一世を風靡するや、昭和六年(一九三一)一月、故あって新聞界を退き、心気一転してこんどは花王石鹸本舗長瀬商会に常務取締役として入社し、同商会が主宰する家事科学研究所の所長を兼務することになった。しかし、そのころすでに健康に不調を来たし、長瀬商会に勤務すること約四年、昭和十年(一九三五)六月、病気を理由にして同社を辞し、爾後、京橋区宝町(現、中央区宝町)斉藤ビル内に事務所を開き、財務経済に関するコンサルタントのような業務をはじめたが、翌昭和十一年(一九三六)十月、病にわかに革まり十一月十七日、ついに白玉楼中の人となった。享年四十八。まことに痛惜に堪えざるものがある。