建物

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①守谷劇場▶昭和23年ごろ

①守谷劇場▶昭和23年ごろ

昭和二十三年(一九四八)ごろ、映画の常設館として上町にオープンしたが、その後、映画の斜陽化に伴い昭和三十年代に残念ながら閉館してしまった。場所は現在のオレンジショップしもむら。
②農業倉庫▶大正12年

②農業倉庫▶大正12年

守谷駅の西側に今もある石造りの倉庫。大正十二年(一九二三)六月に守谷町信用販売購買組合の農業倉庫として建てられた。
③水茶屋―菅乃屋▶昭和43年③水茶屋―菅乃屋▶昭和43年

③水茶屋―菅乃屋▶昭和43年

街道筋などにあって、客室を設け、旅人に酒肴(こう)を提供する店を水茶屋という。かつて野木崎の下川岸地区が河岸としてにぎわっていたころ、河岸には十四、五軒の水茶屋が点在していた。写真はその中の一軒である菅乃屋。水茶屋としては、典型的な造りを見せている。
④腰掛け茶屋―松本屋▶昭和43年

④腰掛け茶屋―松本屋▶昭和43年

街道を行く旅人が休憩する茶屋をいう。写真にある松本屋は、板戸井滝下にある。すぐ下は鬼怒川の渡船場で、菅生、大塚戸方面に通じる交通の要衝であった。

 
 
①守谷小学校の奉安殿▶昭和9年6月

①守谷小学校の奉安殿▶昭和9年6月

中には天皇の写真(御真影)と教育勅語が納められており、児童は登校の際に、必ず礼拝することになっていた。守谷小学校にあった奉安殿は斎藤斐氏が寄付したもので、戦後間もなく取り壊され、地中に埋められたということである。
〈証言〉
「帽子をかぶっている時は帽子を脱いで、奉安殿に向かって最敬礼するんです。それからでないと教室に入れてもらえなかった」
②西林寺▶大正中期

②西林寺▶大正中期

西林寺(下町新田)
糺(ただす)学校(守谷小学校の前身)の仮教場が置かれていたことがあった。
③長龍寺▶大正中期

③長龍寺▶大正中期

長龍寺(土塔本町)
私塾「三昧(さんまい)学園」があった。(九六ページ参照)

 
 
①八坂神社▶大正中期

①八坂神社▶大正中期

八坂神社(仲町)
社殿改築前。屋根は茅葺(かやぶ)きだった。
②八坂神社▶大正13年ごろ

②八坂神社▶大正13年ごろ

八坂神社(仲町)
改築した社殿の上棟式。遷宮式は大正十四年(一九二五)二月二十五日に執り行われた。
③香取神社▶昭和3年11月

③香取神社▶昭和3年11月

香取神社(向崎)
青銅製の唐獅子(からじし)を奉献した時の記念写真。奉献式当日は花火、歌舞伎劇、安来踊りなどを催し、大いににぎわったという。唐獅子は第二次世界大戦中、金属回収のため供出されたが、昭和五十年(一九七五)、石造りの唐獅子が再び奉献された。
④愛宕神社▶大正初期

④愛宕神社▶大正初期

愛宕神社(愛宕)
平将門による創建と伝えられている。社前の道で自転車競技が行われたことがあった。
⑤薬師堂▶大正中期

⑤薬師堂▶大正中期

薬師堂(下町)
俳人小林一茶と西林寺の住職で守谷俳壇の中心人物であった鶴老(かくろう)和尚、その同人などの扁額(へんがく)が納められている。

 
 
①守谷郵便局▶大正中期

①守谷郵便局▶大正中期

守谷郵便局(仲町)
明治十一年(一八七八)、斎藤斐氏によって開局された。
②水海道銀行(現常陽銀行)守谷支店▶年不詳(『常陽銀行20年史』から)

②水海道銀行(現常陽銀行)守谷支店▶年不詳(『常陽銀行20年史』から)

水海道銀行(現常陽銀行)守谷支店(仲町)
大正三年(一九一四)に建てられた水海道銀行(現常陽銀行)守谷支店。
③車井戸●田中勲氏旧宅▶昭和初期

③車井戸●田中勲氏旧宅▶昭和初期

井戸
車井戸。滑車に綱を掛け、その両端につけた釣瓶(つるべ)で水を汲み上げる。
④茅葺(かやぶ)き屋根の家▶昭和40年代後半  ※右上 長谷川孝光氏宅(赤法花) 左下 大久保源治氏旧宅(西二) 左上 石塚隆氏旧宅(坂町)④茅葺(かやぶ)き屋根の家▶昭和40年代後半  ※右上 長谷川孝光氏宅(赤法花) 左下 大久保源治氏旧宅(西二) 左上 石塚隆氏旧宅(坂町)④茅葺(かやぶ)き屋根の家▶昭和40年代後半  ※右上 長谷川孝光氏宅(赤法花) 右下 大久保源治氏旧宅(西二) 左下 石塚隆氏旧宅(坂町)

④茅葺(かやぶ)き屋根の家▶昭和40年代後半  ※右上 長谷川孝光氏宅(赤法花) 左下 大久保源治氏旧宅(西二) 左上 石塚隆氏旧宅(坂町)

昭和四十年代中ごろまでは普通に見られたが、維持の困難さから、カラートタンでおおったり、新築の際に瓦屋根に変えてしまった例が多く、現在ではほとんどなくなっている。

 
 
①珍しかった瓦葺(ぶ)きの家

①珍しかった瓦葺(ぶ)きの家

戦前までの農家ではほとんどが茅葺(かやぶ)きで、瓦屋根の家は珍しかった。
②上がり框(がまち)

②上がり框(がまち)

②―⑤農家の内部
一般的農家の構造は、部屋と土間の二つに大別される。土間はたいへん広く、母家の建築面積の三分の一、時にはニ分の一までに及ぶ場合がある。そして土間の一番奥まったあたりに竈(かまど)がしつらえてあった。土間では仕事をしたり、食事を作ったりした。土間から上がる広い部屋は、広間と呼ばれていることが多いようだ。湿気防止のために床が高く造られているので、上がり口には床より一段低く縁を渡してある。これを上がり框(がまち)と呼んでいる。広間は、大きい家になると、十二畳敷、十五畳敷という広さになる。神棚は広間に祀(まつ)られていることが多い(仏壇の場合もある)。数十年、あるいは百年以上の歳月にも耐えられるよう、柱や梁(はり)は大きく太い木材を使用している。材質は、主にけやき、杉、松が使われている。
③大黒柱

③大黒柱

④竈(かまど)―現在は使われていない。

④竈(かまど)―現在は使われていない。

⑤神棚

⑤神棚


※①②④⑤―小菅安一郎氏宅(本宿)
 ③―大久保源治氏旧宅(西二)