農業

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①苗を植える人々と天秤を持つ人―③の部分▶昭和2年6月20日

①苗を植える人々と天秤を持つ人―③の部分▶昭和2年6月20日

①―③田植
天秤で苗を運び所々に苗の束を放り投げる人、田植をする人(主に女性)、田面をならす人と、完全な分業で作業が進められている。昭和四十年代ごろから田植機が普及し、現在では見られなくなった光景である。
②天秤を担ぐ人と田面をならす人、監督らしき人―③の部分▶昭和2年6月20日

②天秤を担ぐ人と田面をならす人、監督らしき人―③の部分▶昭和2年6月20日

③赤法花共同作業組合による田植風景▶昭和2年6月20日

③赤法花共同作業組合による田植風景▶昭和2年6月20日


 
 
①ゆい―休憩中▶昭和30年代後半

①ゆい―休憩中▶昭和30年代後半

農繁期には、隣近所の農家が日時を決めて順番にそれぞれの家の農作業に協力しあう美風があった。これを「ゆい」というが、守谷近辺では、「いい」「ゆえ」「よい」などと訛(なま)って発音する。(写真は水海道市内)
②苗取り▶昭和46年

②苗取り▶昭和46年

苗代(なわしろ)から苗を取っているところ。水稲の種を蒔(ま)いて苗を仕立てるところを苗代というが、田植機の普及で、今ではすっかり見られなくなった。苗代には水田苗代、陸苗代、両者を折衷した折衷苗代などがある。

 
 
①稲刈りとおだ掛け▶昭和46年

①稲刈りとおだ掛け▶昭和46年

鎌で刈り取った稲は、束ねて「おだ」と呼ぶ稲架に掛けて干される。稲束を何段にも掛けたものを「のろし」というが、守谷では両者混同されているようだ。
②籾(もみ)干し▶昭和28年ごろ

②籾(もみ)干し▶昭和28年ごろ

乾燥機がなかった時代、脱穀したモミは庭にムシロなどを敷き、天日で乾燥させた。「天日乾燥の米はうまかった」とは、いまでもよく聞くことばである。
③唐箕(とうみ)_1③唐箕(とうみ)_2

③唐箕(とうみ)

円形の胴の中に風を起こす扇板が取り付けられており、手動により扇板を回す。その風力で上部の漏斗状の受入口から入れられた穀粒を精選して塵芥、籾穀などを除去した。「利箕(りみ)」ともいわれた。
④くるり棒_1④くるり棒_2

④くるり棒

主に豆の脱穀に使われた。

 
 
①麦刈り▶昭和30年代後半

①麦刈り▶昭和30年代後半

①②コンバインが普及していなかった時代には、鎌で刈り取っていた。小麦の収穫は入梅前の短期間で終わらせなければならず、大変忙しく、つらい作業であった。農繁期には家で子供を保育することができないので、田畑に子どもを連れて来て、面倒を見ていた。(写真は水海道市内)
②麦刈り▶昭和30年代後半

②麦刈り▶昭和30年代後半

③ミツバ洗い▶昭和44年4月

③ミツバ洗い▶昭和44年4月

写真は鬼怒川でミツバを洗っているところである。なお鬼怒川の水は「どぶろく」造りや客用の茶をたてるときに使われるほど良質であった。
④ネギの収穫▶昭和43年

④ネギの収穫▶昭和43年

守谷町は昭和四十三年(一九六八)四月、農林省よりネギの産地指定を受けた。

 
 
①畜力開墾▶昭和20年代(『大八州開拓史』から)

①畜力開墾▶昭和20年代(『大八州開拓史』から)

①―③開墾
農地が狭い守谷では大型農機器は普及しづらかったので、牛馬を利用した農作業は昭和三十年代半ばごろまで見られた。大規模な耕地を有する大木流作地区では、守谷町で最初にトラクターや田植機が導入された。
②牛馬に取り付けた犂(すき)

②牛馬に取り付けた犂(すき)

③トラクターによる開墾▶昭和30年代(『大八州開拓史』から)

③トラクターによる開墾▶昭和30年代(『大八州開拓史』から)

④代搔(しろかき)―牛馬から耕耘(うん)機による代搔へ▶昭和30年代(水海道市内)

④代搔(しろかき)―牛馬から耕耘(うん)機による代搔へ▶昭和30年代(水海道市内)

④⑤代搔(しろかき)
田植前、田に水を満たし、鍬(くわ)や鋤(すき)などを使って土塊を砕き、田面を平らにする作業を代搔という。昔は専ら人力か畜力に頼っていたが、昭和三十年代以降は耕耘(うん)機が主力となった。
⑤耕耘機による代搔▶昭和30年代(『大八州開拓史』から)

⑤耕耘機による代搔▶昭和30年代(『大八州開拓史』から)


 
 
①鋤簾(じょれん)_1①鋤簾(じょれん)_2

①鋤簾(じょれん)

鋤簾は田畑及び河川で用いられた土砂をすくう農具で、鋤簾鍬(ぐわ)とも呼ばれ、田畑において土をすくう場合、鍬よりも能率的であった。竹を箕(み)のように編んだものや塵取りのような板に竹、鉄製の歯を取り付けたものを長い柄で固定した。河川では土砂すくいのほか、魚や貝を捕るのにも使われた。
②鋤(す)き込み▶昭和42年

②鋤(す)き込み▶昭和42年

稲わらなどを細かく切って有機肥料として地中に鋤き込む。

 
 
①鬼怒川に取り付けられた揚水ポンプ▶昭和9年7月

①鬼怒川に取り付けられた揚水ポンプ▶昭和9年7月

①―③干害対策事業
昭和八年(一九三三)から翌九年(一九三四)にかけて、茨城県下は大干魃(かんばつ)に襲われた。そのため大井沢村では、昭和九年七月、鬼怒川から揚水を行うため大山新田において、水路の改修と発動機の取り付け工事を行った。この灌漑(かんがい)事業により平年並の作柄を確保できた。
②水路改修工事▶昭和9年7月

②水路改修工事▶昭和9年7月

③送水管敷設工事▶昭和9年7月

③送水管敷設工事▶昭和9年7月

④一町二カ村水利組合揚水機竣工記念▶昭和24年

④一町二カ村水利組合揚水機竣工記念▶昭和24年

昭和二十四年(一九四九)七月に、旧守谷町、大野村、大井沢村からなる一町二カ村水利組合が、灌漑事業を行った(鬼怒川に揚水機を取り付けた)ことが知られている。
⑤掘抜き井戸の工事▶昭和30年代前半

⑤掘抜き井戸の工事▶昭和30年代前半


 
 
樋管敷設工事
 水が溜りやすい低湿な土地では、堤防内冠水がしばしば起こるため、排水路整備は農業振興に欠かすことのできない重要な事業である。大野村では有志の人々により水利組合(現大野土地改良組合)を結成し、県内でも比較的早い時期からこの事業に取り組んでいた。
①工事中の桑下樋管▶昭和3年ごろ

①工事中の桑下樋管▶昭和3年ごろ

②完成した桑下樋管▶昭和4年3月

②完成した桑下樋管▶昭和4年3月

③今はない船坂樋管の工事▶年不詳

③今はない船坂樋管の工事▶年不詳

④坂町共同採種園▶昭和初期

④坂町共同採種園▶昭和初期

優良な種を得るため、県の補助事業として採種事業が行われた。