醸造業

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しょう油
 利根川沿岸はしょう油の産地として有名で、本町でもしょう油が盛んに造られていた。地場産業ともいえるしょう油製造は、時局の移り変わりと共に姿を消してしまったが、今でも「しょう油屋さん」と呼ばれている家もある。1)田中家(仲町)、2)下村家(上町)、3)森山家(向山)、4)吉田家(新山三)、5)貝塚家(向崎三)、6)会田家(台川端)などがしょう油製造業者として知られている。
  ※現世帯主
   1)勲氏、2)益次郎氏、3)忠氏、4)七左衛門氏、5)勝氏、6)真一氏
 
〈証言〉台川端・会田道子さん
「職人の呼び名ですか?しょう油屋独特の呼び名はなかったんじゃないかしら。でもね、序列で羽織る半纏(はんてん)の種類は違うの。親方が着るのはなめし革でできた革半纏、次が膝下くらいまで丈がある長半纏、その次が普通の印半纏になるの。ただ、革半纏を着られる人はどの蔵にもいたわけじゃないそうよ。めったに着られるものじゃなかったみたい。それからね、しよう油を搾(しぼ)るのに今は一枚の布でモロミを包んでいるけれど、戦前までは麻袋を使っていたのね。この袋を縫ったり、繕(つくろ)ったりするのは、本当に大変な作業だったのよ」
 
〈証言〉新山・吉田七左衛門さん
「うちのしょう油は船で東京の商店に卸していたんだけど、評判が良かったんですよ。アメリカに輸出されたりね、パナマで開かれた博覧会に出品されたものもあるんですよ」
 
〈証言〉大山新田・金剛毅さん
「うちは元は龍光院というお寺だったと聞いています(宗派は不明)。明治の初期に糀(こうじ)屋を始めて、みそ屋を始めたのは大正時代ぐらいからですね。以前は敷地内の地下に室(むろ)があって、そこで糀をつくっていました。作業の一部を機械化しましたが、製法は昔とほとんど変わっていません」
①吉田家に残っていた煙突

①吉田家に残っていた煙突

②田中家旧宅▶昭和初期

②田中家旧宅▶昭和初期

③吉田家で製造されたしょう油のレッテル_1 ③吉田家で製造されたしょう油のレッテル_2 ③吉田家で製造されたしょう油のレッテル_3 ③吉田家で製造されたしょう油のレッテル_4

③吉田家で製造されたしょう油のレッテル

吉田家で製造されたしょう油のレッテル。上段右が、アメリカに輸出されたしょう油に貼られていたもの。

 
 
①塩切り▶昭和40年代前半

①塩切り▶昭和40年代前半

室(むろ)から出した糀(こうじ)(出糀という)を箱から落としているところ。糀を砕いてから塩をまぶす。この一連の作業を塩切りという。
②みそ漉し▶昭和40年代前半

②みそ漉(こ)し▶昭和40年代前半

みそを滑らかにするために大豆や糀のツブをすりつぶし、漉し取る。

 
 

 しょう油と同様、今では製造されていない。しかし、かつては、1)大和田家(下町)、2)田中家(仲町)、3)海老原家(向山)、4)岩田家(向坪、現在は取手市白山)などが清酒を、5)斎藤家(仲町・藤廼屋金物店)が焼酎を造っていた。
  ※現世帯主
   1)仁氏、2)勲氏、3)賢治氏、4)昭子氏、5)芳英氏
 
〈証言〉仲町・斎藤きくさん
「うちはね、酒粕(さけかす)から焼酎(しょうちゅう)を造っていたんですよ。そう、そう、粕(かす)とり焼酎です。芋から造ったのと違って、いやな臭いがなくて、うまいって評判が良かったんですがね。戦争で原料が手に入らなくなってしまったもんですから。ええ、それっきり造らなくなりました。」
③アルコール度数の検査●斎藤芳太郎氏▶昭和初期

③アルコール度数の検査●斎藤芳太郎氏▶昭和初期

④酒槽(さかぶね)●海老原家▶昭和30年代

④酒槽(さかぶね)●海老原家▶昭和30年代

⑤酒甕(がめ)と大釜●大和田家

⑤酒甕(がめ)と大釜●大和田家