工業

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①海老原町の一角

①海老原町の一角

常総線守谷駅の西側、線路と国道二九四号線との間の一角。ここには、以前「海老原航空機株式会社」の社員住宅があったので、海老原町と呼ばれるようになった。
②海老原工場の全景▶昭和22年

②海老原工場の全景▶昭和22年

昭和二十二年(一九四七)、海老原氏が亡くなると共に、工場も閉鎖された。
②海老原直太氏

③海老原直太氏

海老原直太プロフィール
原籍 守谷町大字守谷丙二百七番地二
生年月日 明治二十六年(一八九三)一月十九日

 大正十年(一九二一)七月、東京の品川に海老原板金工場を設立。国産自動車フェンダーの製作販売を始める。以来、業界の発展に寄与、多大な功績を上げる。昭和十八年(一九四三)、当時羽田にあった工場の一部を守谷に移し、社名を「海老原航空機株式会社」と改め、航空機の部品製造を始めた。戦後は軍需産業から一転して農器具等の生産を続けたが、昭和二十二年(一九四七)九月五日に死亡。享年五十五歳であった。

 
 
昭和三十年代の誘致
 昭和三十年代は高度経済成長の一方、農村部では大都市への人口流出、農家の経済的立ち遅れなどの諸問題が表面化した時代である。そこで守谷町では、住民の職場と安定した税収確保を目的に工場誘致を実施した。誘致した企業は、株式会社呉製砥所(現クレノートン株式会社)、明星電気株式会社、株式会社前川製作所の三企業で、いずれも守谷の地理的条件の良さと将来性を見込んで立地したものである。
 
  クレノートン株式会社東京製造所
 昭和三十七年(一九六二)、大字守谷甲一九三〇番地(原地区)に建設。誘致企業の中では最も早く立地した工場である。
 
  明星電気株式会社守谷工場
 昭和三十九年(一九六四)、旧守谷中学校跡地を含む、二四九番地(向原地区)に建設された。操業開始以来の方針で、旧守谷中学校グラウンドはそのまま残され、町の行事などに開放している。
 
  株式会社前川製作所守谷工場
 昭和四十年(一九六五)三月、立沢工場(通称)で操業開始。現在の工場は昭和四十四年(一九六九)に完成した。建設地は、茨城県開発公社及び通産省から工場用地の適地として指定されていた。
 
〈証言〉クレノートン・米原済さん
「当時の守谷には大きな工場がなかったので、非常に珍しがられましたね。守谷、水海道あたりから中学・高校の新卒者を三十名くらい採用したんですが、素直な子ばかりで仕事もしやすかった。ただ今と違って結婚後も勤める女子職員が少なくてね、優秀な女子職員に次々に退職され、困ったこともありました」
 
〈証言〉前川製作所・丹治稔さん
 「先発隊として六名の寮生と共に来たんですが、当時周囲は欝蒼(うっそう)とした林で所々には田んぼもありました。現地採用の人はみな純朴な好青年で、ソフトボールをしたり家に遊びに行ったり、当初から打ち解けることができました」
④クレノートン株式会社東京製造所

④クレノートン株式会社東京製造所


 
 
①明星電気の起工式▶昭和38年

①明星電気の起工式▶昭和38年

②明星電気株式会社守谷工場

②明星電気株式会社守谷工場

③株式会社前川製作所守谷工場

③株式会社前川製作所守谷工場

④最初に完成した通称立沢工場▶昭和40年ごろ

④最初に完成した通称立沢工場▶昭和40年ごろ

⑤前川製作所の起工式▶昭和39年

⑤前川製作所の起工式▶昭和39年


 
 
守谷工業団地
 守谷工業団地の土地区画整理事業の起工式が昭和六十三年(一九八八)十一月十二日に行われた。工業団地の開発は、「職住一体のまちづくり」と「安定した町財源の確保」を実現するために、どうしても必要な事業であった。幸い地権者の同意も得られ、アサヒビール株式会社、日本コダック株式会社など合計五社の立地が決定している。(平成二年七月現在)
①造成工事中の守谷工業団地▶平成元年2月

①造成工事中の守谷工業団地▶平成元年2月

②着々と工事が進むアサヒビール株式会社茨城工場▶平成2年6月

②着々と工事が進むアサヒビール株式会社茨城工場▶平成2年6月

③守谷工業団地全区域▶平成元年4月

③守谷工業団地全区域▶平成元年4月