蚕業

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蚕業
 町内を流れる鬼怒・小貝の両河川は、古くは―例えば『将門記』や江戸時代の絵図には、それぞれ絹川・蚕養(飼)川と表記されていた。残念ながら、『将門記』が書かれた時代から守谷町で養蚕が実際に行われていたことを示す史料は残されていないが、いずれも養蚕業の盛んな地であったことを思わせるような表記である。
 明治になると、政府による勧業政策の一環として農村部に養蚕業が奨励されたので、全国各地で養蚕が栄えた。町内にも明治初期には富総(ふそう)組などによる製糸工場が数カ所あったといわれており、相当数の養蚕農家が存在していたことがうかがい知れる。
 しかし、そのころは養蚕の技術・知識に熟達していなかったため、遠隔の専業地から持ち込まれる粗悪な蚕種(蚕の卵)に悩まされることが多く、したがって、優良蚕種が安定して供給されることは、多くの養蚕農家の願望だった。その蚕種の品質改良・製造に大きな足跡を残したのが、高野村の岩田太郎氏である。
 明治二十五年(一八九二)、父の遺業である蚕種製造業を継いだ太郎氏は、蚕種の改良を重ね、優良品の製造に努めた。特に静岡県で製造法を会得した四化蚕種は各地で好評を博すこととなり、茨城県が全国有数の四化蚕種生産県となったのは、岩田太郎氏の功績が大であったといわれている。
 また、大日本蚕業研究会を創設して蚕業に関する学理及び技術諸般の研究にあたり、月刊誌「蚕業之灯」に新説や研究成果を発表した。
 さらに太郎氏の行った事業で特筆されるものに、「蚕業伝修所」(明治二十九年開設、後蚕業講習所と改称)の設立、運営があげられる。民間レベルで行った蚕業教育は、県下に類がなく、ここから育った養蚕家や技術者は、茨城のほか、福島、長野、山梨、宮城、岐阜、広島、岩手などの各地に及んだ。
 しかし、第一次世界大戦後、蚕業そのものが衰退してしまったため、大正十三年(一九二四)を最後に講習所は閉鎖されてしまった。しかし、その後も養蚕は、現金収入を得る貴重な手段として、戦前まで多くの人々に続けられていた。
①岩田太郎氏

①岩田太郎氏

②蚕卵紙―種紙ともいう(『茨城県第二蚕業試験場創立15周年紀念写真帖』から)

②蚕卵紙―種紙ともいう(『茨城県第二蚕業試験場創立15周年紀念写真帖』から)

③蚕業講習所▶明治34年(『茨城100年写真集』から)

③蚕業講習所▶明治34年(『茨城100年写真集』から)

④茨城県蚕業試験場構内に建てられた「岩田太郎翁紀功碑」序幕式―碑は現在高野小学校内にある▶昭和16年11月

④茨城県蚕業試験場構内に建てられた「岩田太郎翁紀功碑」の序幕式―碑は現在高野小学校内にある▶昭和16年11月

⑤桑畑(『茨城県第二蚕業試験場創立15周年紀念写真帖』から)

⑤桑畑(『茨城県第二蚕業試験場創立15周年紀念写真帖』から)


 
 
①糸取り講習会▶年不詳

①糸取り講習会▶年不詳

大野小学校で行われた糸取り講習会。詳細については不明。
②蚕種製造広告▶明治45年

②蚕種製造広告▶明治45年

岩田太郎氏、石田庄七氏、大竹長之助氏、篠崎久太郎氏などの蚕種製造業者の広告が見える。場所は不明。
③給桑▶昭和40年ごろ

③給桑▶昭和40年ごろ

蚕に餌の桑の葉を与えているところ。
④剉(ざ)桑(『茨城県第二蚕業試験場創立15周年紀念写真帖』から)

④剉(ざ)桑(『茨城県第二蚕業試験場創立15周年紀念写真帖』から)

同じく蚕に餌を与えるのに、③と違って葉を刻んでいる。

 
 
①蔟(まぶし)作り▶昭和初期

①蔟(まぶし)作り▶昭和初期

蔟を稲藁(わら)で編んでいるところ。蚕が繭(まゆ)をつくるとき、糸をかけやすいようにしたしかけを「蔟」という。
②蚕具消毒(『茨城県第二蚕業試験場創立15周年紀念写真帖』から)

②蚕具消毒(『茨城県第二蚕業試験場創立15周年紀念写真帖』から)

蚕が病気にならないよう蚕具を消毒しているところ。左の人物が持っているのが蔟。
③座繰り

③座繰り

数個の繭から糸を集めて一本の生糸を糸枠に巻き取るための手回しの器具。
④糸繰り車―糸車ともいう

④糸繰り車―糸車ともいう

繭や綿花から糸を取ったり、より合わせたりするのに用いる。糸車ともいう。
⑤機織り(『茨城の蚕糸業』から)

⑤機織り(『茨城の蚕糸業』から)

機織りはほとんどの家で行われていた。江戸時代には縞柄(しまがら)が流行していたが、明治以降は絣(かすり)が主流となった。