陸上交通と新交通網

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常総鉄道(関東鉄道常総線)
 水海道の山中彦兵衛氏を中心に創立された常総軽便鉄道株式会社(明治四十四年創立)により、取手―下館間五一・三キロの営業運転が開始されたのは、大正二年(一九一三)十一月一日のことだった。「同年二月十一日の起工式より数えて僅か九カ月に満たないスピード竣工は、鉄道工事史上特筆すべきもの」だそうである。(『常総鉄道株式会社三十年史』)
 初めは産業鉄道としての性格が強く、農産物や鬼怒川から採取される砂利などの輸送が会社経営上大きなウェートを占めていた。
「人はついでに乗せていたようなもの」(元機関士・青島精一氏)ではあったが、それでも客車には、二等、三等の区別があった。
①八坂神社前に造られた守谷駅開駅祝賀アーチ▶大正2年11月(『常総鉄道株式会社30年史』から)

①八坂神社前に造られた守谷駅開駅祝賀アーチ▶大正2年11月(『常総鉄道株式会社30年史』から)

②守谷付近での工事▶大正2年(『常総鉄道株式会社30年史』から)

②守谷付近での工事▶大正2年(『常総鉄道株式会社30年史』から)

③守谷駅▶大正中期

③守谷駅▶大正中期

④代燃発生炉を取り付けた機関車▶戦時中(『常総鉄道株式会社30年史』から)

④代燃発生炉を取り付けた機関車▶戦時中(『常総鉄道株式会社30年史』から)


 
 
①土塔の踏切付近を走る蒸気機関車▶昭和30年代前半

①土塔の踏切付近を走る蒸気機関車▶昭和30年代前半

②取手―水海道間を走っていたC12蒸気機関車▶昭和40年5月12日

②取手―水海道間を走っていたC12蒸気機関車▶昭和40年5月12日

③国鉄払い下げの48002型ディーゼル車▶昭和32年6月

③国鉄払い下げの48002型ディーゼル車▶昭和32年6月

④キハ41001型ディーゼル車▶昭和40年代

④キハ41001型ディーゼル車▶昭和40年代

⑤DB11型ディーゼル車▶昭和44年4月27日

⑤DB11型ディーゼル車▶昭和44年4月27日

⑥取手―水海道間複線完成記念乗車券▶昭和59年11月15日

⑥取手―水海道間複線完成記念乗車券▶昭和59年11月15日


 
 
①水海道駅前のバスターミナル▶昭和17年ごろ(『常総鉄道株式会社30年史』から)

①水海道駅前のバスターミナル▶昭和17年ごろ(『常総鉄道株式会社30年史』から)

路線バス
昭和に入ると、都市部に限らず、地方でも鉄道の補助交通機関として、乗合自動車事業が盛んに行われるようになった。守谷を乗合自動車が初めて運行した時期については、はっきりしない。だが取手―水海道間に関しては、『関東鉄道』(ダイヤモンド出版)に、常総鉄道株式会社が昭和五年(一九三〇)七月「やまと自動車商会」を買収し、翌六年(一九三一)四月十八日から営業を開始した、とある。一方、昭和二十五年度の『守谷町役場事蹟簿』には、昭和二十四年(一九四九)六月、国鉄東京―取手間の電化に伴い、常総鉄道株式会社自動車部により乗合自動車を開設、取手―水海道間の営業を始めたとある。この記述により、昭和十八年(一九四三)から戦局の悪化に伴い休止されていた路線が、この年に再開されたことが判明した。
②人力車▶明治44年ごろ

②人力車▶明治44年ごろ

人力車は別に腕車、力車などと呼び、明治三年(一八七〇)、東京日本橋で創業された。その後次々に改良が加えられ、明治、大正期には大いに需要を高めた。
③乗合馬車―トテ馬車

③乗合馬車―トテ馬車

明治の末期から大正時代にかけて、現在の守谷町域内に数本の乗合馬車の路線があった。馬車の定員は十名ぐらいで、真鍮(しんちゅう)製の笛を鳴らしながら走っていた。この笛の音が「トーテー」と聞こえたことからトテ馬車と呼ばれていた。詳しい路線や運賃は明らかではないが、町内で現在わかっている立場(たてば)(停留所)のあった所は、愛宕の長妻自転車店、上町の吉田米店、向崎二の中島正一氏宅である。
④サイドカー▶昭和9年4月2日

④サイドカー▶昭和9年4月2日


 
 
①常磐自動車道―基礎工事中▶昭和48年11月

①常磐自動車道―基礎工事中▶昭和48年11月

②完成間近の常磐自動車道▶昭和55年ごろ

②完成間近の常磐自動車道▶昭和55年ごろ

③新大利根橋有料道路開通式▶昭和55年4月17日

③新大利根橋有料道路開通式▶昭和55年4月17日

④「常総ふれあい道路」開通式▶昭和63年4月8日

④「常総ふれあい道路」開通式▶昭和63年4月8日

⑤常総ふれあい道路全線開通記念町民マラソン大会▶昭和63年4月8日

⑤常総ふれあい道路全線開通記念町民マラソン大会▶昭和63年4月8日