住宅開発 守谷は、八坂神社前の道路(昔は銚子街道と呼ばれていた)の両側に民家が集中していたいわゆる街道集落で、その中にわずかに江戸時代初期における城下町の面影を留めていたにすぎない町だった。それが昭和三十年代後半になると、首都圏近郊の住宅地として民間会社による宅地開発の手が加えられるようになった。しかし、小規模な開発ばかりではスプロール化(虫食い状態)現象が起こり、将来の町づくりに支障をきたすことを憂慮した町では、小規模開発を規制し、大型の宅地開発計画に着手することになった。それは、昭和四十一年(一九六六)六月、首都圏近郊整備地帯の指定を受けたことから具体化した。
大団地造成についてはすべて順風満帆に事が進んだ訳ではないが、幸いなことに地権者をはじめとする地元の方々にご理解をいただき、今や首都圏のベッドタウンとして高い評価を受けている。
| ①南守谷団地区域▶昭和62年6月11日 ①―④南・北守谷団地 大型宅地開発は、まず日本住宅公団(現住宅・都市整備公団)によって行われた。すなわち、昭和四十六年(一九七一)一月、北守谷団地の計画が決定し、次いで四十八年(一九七三)、南守谷団地の造成計画が決定した。北団地が五十七年(一九八二)八月二十一日から、南団地は六十二年(一九八七)十月三十一日から土地分譲募集受付を始めた。そして分譲の回を追うごとに人気は上がり、ますます発展を続けている。 |
| ②南守谷団地区域▶昭和51年ごろ |
| ③北守谷団地区域▶昭和50年ごろ |
| ④北守谷団地区域▶昭和62年6月11日 |
| ⑤開発前の郷州原―現みずき野▶昭和52年ごろ ⑤⑥みずき野 現在のみずき野地区は、もとは郷州原と呼ばれる山林であった。ここに三井不動産株式会社によって住宅地が造成されることになったのは、昭和五十三年(一九七八)五月のことだった。入居が始まったのは昭和五十七年(一九八二)四月で、以来、年次計画により着々と建築が進んでおり、公団同様に高い人気を呼んでいる。 |
| ⑥みずき野▶昭和62年 |