一 大昔の守谷地方 早くからの民族居住の地

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 守谷を中心に、この近処一帯の山林や田畑などから、折々石斧とか石鏃とか、又濃い灰色の素焼の壺や皿などが掘り出される。沼沿いの所には古い貝殻の土中に層を成して居る所なども何カ所かはある、貝塚という地名もある。是等は何づれも先住民族といつて、我々大和民族以前のものの遺物であり遺蹟であつて、石器は概して当時の武器で、土器は概して食器であり、貝塚は即ち食後のはき溜めである。かうした事から、我が守谷地方一帯は、早くも数千年前、或は寧ろそれ以上の大昔から、多くの人類の住んで居た土地であることが知られる。地が肥えて樹木が茂り、丘陵の起伏も多いので、自然鳥獣も蕃殖したろうし、池や沼からは魚や介類も多く獲られたであろうので、おのづから生活の適地とされたものと見なければならない。
 それと共に、亦附近の田畑や原野などから、学名弥生式土器といわれる渋い赤味を持つ茶褐色の壺や皿などが掘り出されることも少くない。郷州原(がうしふはら)などは代表的の所で、「原日本民族居住遺蹟」の碑も建ててある。近くは板戸井清滝山附近からも多く出た。この弥生式土器を用いた民族と、繩紋式土器を用いた石器時代民族とは同じ民族であるというのが最近の学説のやうであるが。私は遺物の持つ味いから観て、弥生式土器使用の民族は寧ろ大和民族に近いものでなければなるまいと言いたい。私以外にもこの考え方をする学者も何人かはある。
 大和民族の主なる遺蹟としては古墳を挙げなくてはならないが、これもこの辺には可なりに多くある。大塚、十三塚、五十塚、鈴塚、又は、のめり塚、上人塚、椿塚、二ツ塚など、地名を成して居るものも多い。前方後円、丸塚、段塚、さまざまで、何づれも当時に権勢のあつた豪族の墳墓である。上古から奈良朝頃までのもので、弥生式時代との接触も知られる。附近のもので巳に発掘されたものも三四あるが、大石廓に囲まれて、内からは遺骨も出れば、直刀や多数の矢ぢりの出たものもあり周囲から各種の埴輪の出現もあつた。その幾つかは国立博物館に寄托してある。
 斯うした遺蹟遺物の発見から観ても、守谷及びこの地方一帯が、早く先住民族の居住地となり、続いて大和民族の時代に入り、同じく聚落を成しての居住地となつてあつたことを認めなければならない。
 又守谷沼からは、明治十年と昭和二年との二回に亘つて独木舟が掘り出されて居る。長い間水中に在つたので、陸揚げ後、水分の無くなると共に毀れてしまつたが、然るべき豪族の用であつたことは知られる。特に第二回の時には内務省から史蹟調査員の出張もあつて精密な討査をされたが、相当技巧的である点と直線的の構成などから推して奈良朝末期か平安朝初期のものであろうとの結論を得たものであつた。