二 相馬及守谷の地名 由来と変遷

3 ~ 5 / 45ページ
 守谷附近ばかりでなく、今千葉県になつて居る旧南相馬郡と、茨城県の北相馬郡と合わせた元の相馬郡一帯は、元来湿地が多く沼や水溜りも少くなかつた。今の菅生沼や手賀沼、乃至は守谷沼や貝塚沼もその名残りである。それに利根川の流れも今の本流は昔の河道ではなく、今日までには幾回かの変遷を重ねて居る。そうした事で、古く湿潤な沼地という所から「さぬま」又「さぐま」といつたのが、やがて相馬郡の名の出た本であるといわれてある。初めは音を取つて倉麻郡とか雙麻郡とか書いたことは奈良朝時代の古記録や古文書に例がある。それが相馬郡となつたもので、その中心として郡司の官衞があつたか又は相馬御厨(みくりや)の屯倉があつたか、その「まもりびと」の居た所から「もりや」の名が起つたといわれて居る。しかし是には確かな証拠のあるわけではない。
 何づれにしても守谷一帯が相馬郡の中心として古くから相馬郷又相馬庄と呼ばれて居たことは明かで、可なり長く続いた。豊臣秀吉が天正十八年の小田原征伐の時の文書にも此地方を相馬庄としてある、長龍寺の浅野長政木村重茲署名の禁制などもその一例とする。天正十九年の徳川家康が土地寄進の朱印状にも相馬郷としてある。長龍寺、西林寺及総代八幡のものがそれである。明暦三年の石碑に「勝麻庄」と刻したものは大日堂跡に残つて居るが、これは当時相馬を「せうま」と訓んだ一つの証左で、慶長版の「節用集」に特に相馬郡に「せうま」と振り仮名をしてあるのと相合する。守谷は畢竟この相馬庄又は相馬郷の内であつて、元和七年守谷城主土岐内膳介が愛宕神社に奉納したわに口には森屋之郷としてある。又今は戦時供出となつて残存しないが、寛文十一年在銘の長龍寺の梵鐘には守谷郷土塔村と刻されてあつた。