三 平將門がこと 謂ゆる相馬偽都の迹

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 相馬郡の僣都とか、相馬の偽宮とかいうことは、天慶の昔に平将門が経営したものとして、古くから史書軍記さまざまのものに記るされて大業に伝へられ、その上に江戸時代になつて、それが更に潤色され誇張され小説化して、相馬内裏とか相馬の古御所などの名の下に浄瑠璃となり歌舞伎となつて人の耳目に親しみ、益々世に普及するようになつた。その相馬というのが即ち相馬郡の中樞である守谷に該当する。別に僣都の地として猿島郡岩井を挙げた史書もあるが、岩井は営所であり戦死の地であつて居住の本拠ではない。
 当時の事を書き遺したものに「将門記」がある、唯一の実録ということになつて居る。それには相馬とか守谷とかの文字は記るされてないが、各地転戦を記るした中に、「本邑に帰る」とか、「本堵に帰る」とか、又「本郷に帰る」とか書いた所が何カ所かある。本郷というのは幾分他の意味もないではないが、何づれにしても是等は地名ではなく、郷里の本拠と解すべく、又それが相馬郡であり今の守谷の地であるべきことは、幾多の他の史書の記事の上から推定してよかろうと思われる。
 平将門は桓武天皇の後裔で上総介高望の孫に当り、鎮守府将軍良将の三男に生れ、相馬に居つて相馬小次郎と称した。若い時から武勇に勝れ最も騎射に長じて居たといわれる。初め京都に上り、時の摂政藤原忠平に仕へて滝口の衞士となり、更に検非違使を望んだが、得られなかつたので、不満で国に帰り相馬御厨の下司となつた。即ち守谷帰住である。この間、豊田郡に居り、又新治郡にも居たことが記るされてある。それから推して常陸南部から下総北部にかけ広く勢力を張つて居たことが知られる。豊田郡というのは今の結城郡の一部で水海道から宗道かけ絹川と小貝川に挾まれた一帯の地である。
 この頃常陸前掾源護の子の扶、隆、繁の三人が、女の事で将門にふくむ所があり、不意に将門を襲つたが敗れて殺された。その時に将門の伯父の平国香は常陸大掾で国府(今の石岡)に居たが、三人を援けたので亦将門に殺された。それで国香の弟の良兼は国香の子の貞盛と共に将門に迫り来つたが是れも亦敗れた。護は走つて京都に之を訴えた。将門もそれを聞き、急いで上洛して釈明した。その為に将門は罪にもならず武勇の誉れを得て帰つて来た。その時、貞盛は兵を催し会々将門の居つた栗栖院常羽御厨に火をかけて攻め寄せたが亦郤けられた。それで貞盛は復京都に上つて訴えた。兎に角斯様にして将門の武勇は却つて益々附近にとどろく結果ともなつた。
 是時に又常陸に藤原玄明というものがあつて、官物を弁納しなかつたので、国司の藤原維幾が之を捕えようとした。其処で玄明は救を将門に求めた。将門は窮鳥ふところに入るものとして之を容れ、維幾を攻めて檎にした。その折に丁度武蔵権守の興世王が武蔵の新司と合わず、下総に来て居たが、之を観て将門に向つて、今一国を討つたがその罪は軽くない、同じくば寧ろ阪東八国を奪掠してはどうかと説いた。それで将門もその気になり、天慶二年十二月に勢に乗じて下野から上野に進み、その守や介を追つて府庁に入つた。正に意気昂揚のすがたであつたと見るべきである。その時に会々八幡大菩薩の御使という一妖婦が現われ神詫というを伝えた。それは天位を蔭子将門に授くというのであつた。事理の弁の少なかつた将門は、之を聞いて増上慢の気分になつたであろう。左右のものの勧むるままに自ら平新皇と号し、下野上野常陸上総下総安房の国々の守介を任命し、百官を置き偽宮建設の企図をしたと伝えられて居る。その実際は果してドレダケの計画であつたか明かでないが、その後僅に三月に足らず翌三年二月十三日には早くも亡ぼされた所から観ても、たとえ計画はしたとしても実現の時はなかつたと観るべきである。それにしても噂は噂を生み事は極めて大げさに傳えられた上に、時を同うして四国に藤原純友の乱も起つたので、朝廷では一層驚いたようで、藤原忠文を征東大将軍とするやら、巨社大寺に反賊降伏の祈願をするやら、大騒ぎをするまでになつたのであつた。
 征東大将軍の任命はあつたが、その出発の前に、貞盛は下野の押領使藤原秀郷の援助を得て共に将門に迫り、之を当時の滞在先の石井営所に襲つた。将門は島広山に避けて之を防いだが、流矢に当つて戦没した。石井営所は今の猿島郡岩井である。
以上が当時の史料から知られた将門の事蹟の大要である。
 将門陣亡の後、その首は京都に送られたが、遺骸は故国に残り、怨を含んで埋められたというので、それがいろいろの伝説と共に東国全般に亘つて極めて多くの将門関係の遺蹟を残すに至つた。岩井の国玉明神や島の薬師もその一つであり、守谷附近では米の井の桔梗塚や三仏堂も亦その一つである。岡には岡不和の塚があり佐倉には将門山がある。東京では、神田明神に津久戸八幡、旧大蔵省構内の古塚、芝崎の日輪寺など、挙げ来れば幾百を以て算えても尚足らぬほどにある。
 是れ畢竟は、将門が甚だ武勇に勝れて居たこと、東国一帯の人心を得て居たこと、それに怨を飲んで死んだことなどに対する同情と、かねてその憤りから来る祟りを恐れたことなどから是に至つたものとせなければならない。
 守谷の故城址は、即ち当時の将門本拠の遺蹟であると推定すべきではあるが、飽くまでも推定であり、且つその後相馬家の居城となつて数百年を経由し、更に江戸時代になつて、土岐氏や堀田氏の居城ともなり、幾変遷を重ね、次ぎ次ぎの改造増築も施されてあるので、将門当時に果して如何ようの規模にあつたか、今日に於ては明かにしようもない。