「将門山の古御所(ふるごしよ)に妖怪変化住家(へんげすみか)を成し云々」は、普く知られる浄瑠璃常盤津の一句であるが、是れも将門が亡びた後の、その遺蹟に将門が怨霊のこもつて物凄いまでに荒れ果てたさまの、後々まで語り伝えられたことから出たものと見る。「保元物語」や「平家物語」「源平盛衰記」など、鎌倉時代に出来た軍記物語を始め当時のものには皆将門が相馬郡に都を建て平親王と号して一時に権威を振つたことを書いて居る。その相馬郡というのは即ち守谷を指すもので、今の守谷城址がその地点を成して居る。広い大江の真中に突出した半島形の丘陵で、当時の攻防戦では無類の要害であつたことはいうまでもない。その要害を本拠としながら将門は亡滅した。怨霊もこもつたであろうと思われる。
将門の歿後、その後裔といわれるものが遺墟を修めて此処に居り、将門が通称から採つて相馬氏と称し、漸次勢力を得るに至つたが、その伝統の迹は余り明かでない。将門の次子の将国というものが、将門の歿後流浪して信太郡(今の稲敷郡の一部)に移り、一時信太を称したが、四代小太郎重国になつて守谷に移りて相馬氏と称し、それから又数代胤国の時に千葉常胤の二男師常を嗣とし千葉一党となつたといつて居るのが「信太系図」の所伝で、奥州の相馬家では之を採つて居るが、疑点があるといわれて居る。又「千葉系図」では、将門の弟の将頼が相馬御厨(さうまみくりや)の下司(げす)を継いで御厨三郎といい、その後に将門の叔父良文の三男が又御厨の下司を承けて初めて相馬氏を称し、その子の忠常が千葉に移つて千葉氏を称え、更に数伝して常胤の時になつて、二男師常に相馬氏を継がしめ相馬二郎といわしめたといつて居る。これも全面的には信じがたいとしても大方は正しいものとされて居る。