(二) 相馬師常とその後

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 種々の伝説はあつても、将門歿後二百年ばかりの間の史実は明かでない、保元平治の両乱を経て時代は遷り、平家の世盛りと清盛の勢威時めく頃になつて、相馬家から分れた千葉介常胤の二男の師常が、更めて相馬家を承けて相馬二郎と称し守谷に在城したのを相馬家中興の祖とする、千葉六党の随一に挙げられて居る。平家討滅後、源頼朝から下総国の内、相馬猿島結城豊田四郡安堵の御教書(みぎょうしよ)を与えられて居るのから観て、当時の相馬氏の領土が知られる。鎌倉幕府が開かれてからは鎌倉では巽(たつみ)の方荒神の辺に屋敷を構え、邸内には相馬天王祠を勧請した。その遺蹟は今に残つて居る。元久二年十一月十五日六十七歳で鎌倉に歿した。
 師常から以後、相馬氏は代々相馬小次郎を通称とし、数伝して胤村の時になり、九人の子があつたので、その歿後、遺書により領土をその九人が分配した。それが鎌倉末期の永仁二年であつたので、相馬家では、後々まで之を永仁の御分配といつて居る、その九人の内で、長男の胤氏と五男の師胤が著われて居る。
 胤氏には又胤基胤忠という二人の子があつたが、之れが師胤の子の孫五郎重胤と融和せず常に相争つた。元享三年二月というに重胤は遂に主従十三騎、修験者に変装して相馬の地を去り、文治以来相伝の領地である奥州の太田吉原を指して落ちて往いた、白河口から奥州に入り標葉の津島から鉄山を越えて太田川の上流横川に出で、それから片倉の八重米坂に着いたのが、その時の行程と伝えられてある。その後、嘉暦元年以後程近き小高に移り太田の邸址には妙見祠を奉祀した。これが守谷相馬と奥州相馬の分立で、初め重胤が屋形を構えた太田には、下総随従として後々まで特段の優遇を受けた岡村百姓八戸が今に残つて居る。それ等から推して下総在住当時の重胤の居館は岡村であつたことが想像される。
 重胤は延元の乱には斯波陸奥守家長に属して足利尊氏に党し、北畠顕家の東下を相模国境に支えて敗れ、鎌倉に退いて法華堂で自刃した。為めに足利氏は、その功を追賞し遺児の盛胤に奥州行方庄安堵の御教書を与えた。それが後日まで継承された領土である。江戸時代になつても参勤交替の際には特に高野の海禅寺まで駕を寄せられたことも伝つて居る。
 本拠守谷に留まつた相馬氏は、之に反して始終勤王の為めに尽くしたが、就中、胤忠の子の四郎左衞門忠重は世に強弓を以て知られ、延元元年六月、足利軍の西国からの東上で、後醍醐天皇の拠なく再度の比叡山行幸となつた際には、丁度京都に在つたが、之に供奉して足利勢を山の中腹に拒ぎ、遠矢を以て武名をとどろかしたことが「太平記」に詳記されてある。その後、北畠親房が東国に下り常陸の小田城に籠つて正義の旗をひるがえした時には、忠重は又守谷城に春日中将顕時を迎え、千葉一党と共に小田城に呼応して官軍の為めに気を吐いた。