(三) 東国の動乱と相馬氏の去就

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 後醍醐天皇が吉野に行幸されてから後は、大体に於て国内は北朝を戴いて足利氏の勢力下に帰した。それで足利氏は幕府を京都の室町に開いて世に臨んだが、初めから威令行われず到る所に動乱が続いた。中にも関東は足利氏発祥の地というのに最も安定を欠き、尊氏の子の義詮が関東管領として鎌倉に在つたものの人心帰服せず、執政補佐の重臣の上を剋するものさえ次々と現われ、応永十六年満兼の子の持氏が管領となつた時には、執事の上杉氏憲が悦ばず、同二十三年十月に持氏の叔父の足利満隆と結んで持氏を鎌倉から追つた。此時に守谷の相馬氏は忠重の後を承けた胤長が相馬百三十余村を領地としての当主であつたが、千葉胤直父子と共に氏憲に附いてその一党となつた。翌二十四年に持氏は再起して鎌倉に迫り氏憲は戦死した。
 かくて管領家と執事家の抗争はそれから三十年も続いたが、康正元年に至り持氏の子の成氏は勢振わず遂に鎌倉を去つて下総の古河にのがれ、其処に館を構えて鎌倉に対することになつた。之を当時古河公方(こがくぼう)といつた。是れから後、東国の豪族は、鎌倉の上杉方に属するものと、古河公方に属するものとの二つに分れた。千葉の一族や小山城の小山氏、結城の結城氏、関宿の梁田氏、それに小田城の小田、安房の里見などは古河公方に一味した。相馬氏も亦この時から一族と行動を共にして公方方に附いた。
 斯様にして東国全円は攻防争乱の地と化したが、その時会々伊豆から起つた伊勢長氏は小田原城を略して北条氏と名乗り、早雲と号して威を関左に振つた。その子氏綱、その孫氏康に及び、永正大永から天文年中に亘つて相模武蔵を略し、一方古河公方を圧すると共に他方上杉氏を追い、更に安房の里見を屠り下総の千葉を従え、殆んど関八州を手中に収めたが、唯常陸の佐竹氏だけは、西は下野、北は奥州に跨る広大な勢力を持して之に対抗し、下妻の多賀谷氏を与党とし蔚然たる位置を保つて居た。
 そうした間に、古河公方は成氏から政氏、高基、晴氏と伝え、或る時は両上杉と和し、或る時は北条氏と結び、只管地位の安全を図つたが、名門というだけで実力は益々乏しく、晴氏の子の藤氏と藤政とは天文二十三年に捕われて小田原に伴はれ、又鎌倉に移されるなどいうことにもなつた。この間、晴氏は小山の小山高朝や守谷の相馬左近大夫治胤等と計つて古河の復興に努めたが勿論成功はしなかつた。その後永祿二年に北条氏康は家を氏政に譲つたが、氏政は翌三年に藤氏と藤政を伊豆に流し、更めて晴氏の子義氏を立て、第五代の古河公方とした。さりながら当時は上杉姓を承けた越後の長尾輝虎(謙信)が東国を威圧してあつたので、古河への復帰は出来なかつた。かくて義氏は関宿から小田原、或は鎌倉と転々して歳を過ごしながら何づれにも落つかず、唯矢の如き帰心に逸るのみであつた。それを観て相馬治胤は、守谷城が地勢要害ともに堅固無双の安全地帯であるので、その提供を申出た。義氏は喜んで侍臣を遣わし、感謝を以て受諾し、治胤は又相当大規模の増築工事を施して之を迎える準備をしたが、如何なる故か、移住は実現に至らなかつた。或は北条氏が喜ばなかつた為めでもあつたろうか。それを観て関宿の梁川晴助は、古河の代償として守谷を望んだが、之れは氏政が許さなかつた。
 それほどに守谷城は要害の地として当時に知られたものであつた。治胤は実に此に治し、高井(小治郎胤水)、筒戸(駿河守胤房)、菅生(越前守胤貞)、岩堀(主馬)、大木(駿河守胤清)と一族を周囲に配し、大きな勢力を張つて居たのである。
  和田のでぐちの五本榎木、本は稲村、葉は寺田、花は守谷の城に咲く城に余りて町に咲くの唄は即ちその頃の守谷の繁栄をたたえたものと伝えられてある。
 現在に尚当時のおもかげを留めて居る守谷城の築造は、遠祖将門の遺墟を利用したものとはいえ、規模を大にし要害を堅固にした大工事は、後の相馬氏の時になされたものであるのはいうまでもない。かつて二本松土塁を切り崩した際に、多量の永楽通宝の発掘されたことなどから観ても、それ等の工事の足利中世以後であつたことが知られる。蓋し永楽通宝は明の永楽年間の鋳造であつて、我に大量に輸入され、東国特に北条氏の勢力地内に最も通用されたものである。今の俗称二本松を大手とし、それから左右に高台を利して長く延びた土塁の内が即内廓であつて、北東二三町にして達する清水門の土塁を第二の構えとする。続いて第二高台、第三高台がある。第二高台は御厩台の名を伝えて居る。第一台地とは橋を渡して連絡したものというべし、大枡型が厳然として残存して居る。次は即ち本城址、総面積一町三反歩、中央が平坦である所から平台山など称されて居る。これも御厩台からの橋があつたことが歴然としてその迹を止めて居る。此にも入口に大枡型がある。是等の枡型は我が築城史の上から観て最も古いものの一として興味を以て数えらるるものである。本城址から更に北に物見台、次に妙見祠を勧請した妙見廓と、連続した高台が、半島形を成して沼の面に突出して居るのが実に守谷城の特色とする。本城址の西北一隅には約一反歩ほどの凹地があつて周囲を高い土塁で囲んで居る所もある。兵糧米の貯蔵庫を置いた所でもあろう。又本城から離れて西北に数町、出丸とも見るべき高台もある。之を御茶屋丸と呼んで居る。麓には限りなく清水の湧く一小池もある。それ等の迹を、それからそれと尋ねれば容易ならぬ規模の大きさを持つた一城地であつたことが知られる。