(四) 相馬氏の末路と守谷開城

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 攻防闘争の続いた戦国の世も、何時かは移つて豊臣秀吉の統一となり、京畿東海から中国四国九州まで、その手中に帰したが、独り小田原の北条氏だけが関東に蟠居して最後まで屈伏しなかつた。それで秀吉は天正十八年に、大挙して東下し箱根山上に持久の陣を布いて之に臨んだ。北条氏政父子も遂に抗し得ず、関八州と共に小田原城を致して降り、茲に北条氏は亡びて、その庇保の下にあつた諸豪族亦悉くその所領を没収された。守谷の相馬氏も当然是時を以て父祖累代の居城と離れることになつた。
 浅野弾正長政と木村常陸介重茲は、此に更めて秀吉の命を承け、東国の田畑に繩を入れて丈量し石高を定めた、世に天正の検地というのはこの事である。その際に、由緒の正しい神社や仏寺には守護不入の禁制を附して俗権の圏外に独立せしめ且つ所領安堵の朱印を與えた。土塔長龍寺に与えた禁制及秀吉朱印の安堵状はその時のもので、長龍寺の由緒を後世に証するものとする。
 東国平定後、八州の地は挙げて徳川家康に与えられた。乃ち家康は江戸に入つて之を居城とし、東国の名族を沙汰したが、相馬氏も地方の名族である所から、治胤の子小三郎秀胤を抽いて旗下に列せしめ、五千石の大祿を与えた。
 秀胤は慶長二年正月十五日に歿したが、治胤は更に長らいて同七年五月六日に世を終つた。六十二歳といはれる。墓は江戸牛込通寺町松源寺に在つたが、明治末年に寺と共に他に移された。或は初め高野の海禅寺に葬られ、後に松源寺に改葬されたものとも思はれる。
 秀胤の統は、後に二つに分れ、本家は左源太、又小源太と称して四谷に屋敷を構えてあつた。寛永の旗本伊達者としてよしや組の巨頭に相馬小次郎があるが、その一族であろう。分家は出でて小田原の大久保家に客分となり、代々七左衞門を称して明治維新の時にまで及んだ。