五 土岐山城守三代の居城 東国の要地

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 徳川家康は地を関八州に得て、八州統治の地としては小田原も採らず、鎌倉にも入らず、武蔵野の一偶に偏在して世にも知られなかつた江戸を択んで居城と定め、天正十八年の八月朔日に入城した。その際に八州の要所々々に三河以来の譜第の家臣を封じて、それに居らしむることにした。当時尚相馬城と言つて居つた守谷の城は初め原式部大輔胤成に与えたが、やがて土岐山城守定政を以て之に替え、一万石をその封土とした。定政は直に守谷に入り相馬氏の旧城を修めて之を居城とした。
 定政は、もと美濃源氏の一党で、幼くして父に後れ、菅沼常陸介に養はれて菅沼藤蔵と称し、早くから家康に仕えたが、美しい少年であつたので殊の外に愛され、当にその左右に侍したといはれる。武勇にも勝れ、寺部掛川の戦や、秀吉と対峙した小牧の陣にも勲功をたてて居る。土岐の本姓を用いなかつたのは、一族から主君信長を害した明智光秀が出て居るので之に憚つた為めであつたが、文祿二年からは許されて土岐を称するやうになつた。慶長七年に歿して子の定義が後を継ぎ、十八歳で山城守に叙せられ守谷一万石も之を継承した。関ケ原の役後、水戸の佐竹義宣が秋田に移されて、その後が騒がしかつたので、命を承けて水戸に到りその空城を守つたことなどもある。慶長十九年の大阪冬の陣には家康に随つて戦功を樹て、翌元和元年五月の夏の陣には江戸城に留守した。その間二度の加封があり、内三年更に二万石となつて摂津高槻の城に移された。
 定義の転封の後、守谷は一時徳川家の直領となり代官の岡登甚右衞門と浅井八右衞門が支配したが、幾くもなく元和五年の正月に、定義は高槻の城で歿し、その子の内膳頼行はまだ十二歳の少年であつて、重要の地の鎮護に適しないので、一万石を以て同年十二月に再び守谷城に移された。土岐氏としては僅に三年にして旧地に帰つたものである。やがて寛永元年、頼行は山城守となり、同四年三月二万五千石に加増されて出羽上の山に封を移され守谷を去つた。頼行の守谷在城は九年、天正十八年定政が初めて封ぜられた時から数うれば、その間三年の空間はあるが、前後三十七年になつて居る。
 斯様に、土岐氏の守谷在城は相当長くもあつた上に、永い戦乱も収つて徳川氏の治下に入り、周囲の情勢もおのづから違つて来た時であつたので、それに応じて此際に城地も城下町も相当に大きく整理されたものであつた。
 相馬氏の時代は、守谷城の範囲は極めて広く、今の町を成して居る場所全部も外廓として城内に含まれてあつたのであるが、土岐氏になつて、城内を今二本松と呼ばれる大手門以内に限り定め、外廓一帯を町方に開いて街路を作り、在来高野村に接近してあつた守谷町の民家を之に移し、更めて城下町とした。高野の字本宿及び之に隣接せる字宿畑は即ち守谷町の旧地で、その地名が之を立証して居る。鎮守の八阪神社(牛頭天王)も町と共に本宿に在つたのを、慶長三年に現在の地に移されたもので、その時に土岐山城守寄進造営の社殿は宏壮なものということであつたが、寛文二年に焼失した。唯その際に造られた内殿だけが罹災を免れ、桃山建築の気分を留めた立派なものとして今に本殿内に保存されてある。愛宕神社はその当時の豪華な建築を後世まで遺してあつたが、是れは惜しくも大正二年に焼失し、今では当時のものとしては元和七年土岐内膳介奉納のわに口だけを残して居る。
 西林寺も、もと今の本宿に在つたのを、矢張り此時に今の籠り山に移されたと伝へられて居る。唯天満天神だけは移されずに今に本宿の旧地に残されてある。その為め守谷の子供達は、明治初年までは正月の書き初めの幟を特に此処まで往つて奉納したものであつた。三百年前の習俗の名残を留めたものとして見なければならない。
 二本松、即ち旧大手内北側一帯、第二清水門までの地は、今も二十五軒の称を残して居る。是れは土岐家重臣二十五家の屋敷を列ねたる址、又清水門内の高台俗称九左衞門屋敷は即ち家老井上九左衞門の屋敷のあつた所とする。愛宕地先の足軽町も土岐氏の時に開かれた足軽居住の地で、之に隣する新屋敷は堀田氏の時に開かれた武家居住地とする。